6 赤館町かいわい (能代の歴史ばなしより)

6 赤館町かいわい

 能代市役所の西南から旧赤館町の西南部にかけて、広い地域にわたって、かつては湿地あるいは沼地であったことが「代邑聞見録」でも明らかです。とくに現在の能代病院南側に広がっていた通称「新町のガマ」は、旧西光寺裏手のガマや大政家の前のガマと元来一つの広いガマであったようですが、明治25年秋に開通された国道工事に伴う埋め立てによって三分されたのです。能代を貫通する初めての国道が秋田方面から柳町新道-大町-上町-畠町を通って東能代に技けるというコース(国道7号)に決まるまでには町民大会が開かれたりもしています。
 
 これまでも度々記した「代邑聞見録」は江戸中期、能代奉行所の下代(しもだい)役宇野弥一右衛門親員(やいちえもんちかかず)の執筆したものですが、これには赤館町のできたのは宝永年聞(280年ほど前)と記しています。同書には次のようにあります。

 「赤館町は旧(もと)湿地にて沼あり。霖雨(ながあめ)の時は必ず水溢れ、柳町往還絶えける事度々(たびたび)あり。昔は野代給人(きゅうにん・能代に居る武家の使用人)は多賀谷左兵衛殿組下(くみした・家臣)ばかり成(なり)しに(中略)宝永年中松野源五郎殿組下檜山より移置(うつしお)かれ・・・・・」

 「西光寺後稲荷社地向いも湿地成(なり)しに、御下代(しもだい・能代奉行の下役、ゲダイともいう)伊藤杢右衛門屋鋪(やしき)無之、正徳年中依願被割下(ねがいによりわりくださる)。後に沼ありて裏間数少なきにより、西光寺後土堰際(うしろどせききわ)より柳町裏間の外(そと)迄、無残被割下(のこりなくわりくださる)。享保13戊申(つちのえさる)、霖雨にて柳町より押来る水、杢右衛門後(うしろ)沼より溢(あふ)るる水、稲荷屋敷、西光寺土堰半分水下に成、往還難成(なりがたし)、給人屋鋪(やしき)も西北角より34軒水下になりけり。湿地故雨晴日数有て右水引(ひく)事なし。或者さらいとやらん忠進して水を汲捨(くみすて)けるに漸(ようやく)往還も成(なり)き・・・」

 以上のように、湿地に造成した土地であり、沼で囲まれているために、度々水害を被っていたようです。

 時代が下って昭和初期に和田鴎浦(おうほ・西光寺の先々代住職)の執筆した「西光寺史」の一節には「・・・・・不毛の地2218坪を乞い受けて湿地を埋め土地を平らにし自費開拓して堂宇(どうう)を移し・・・・・」とあります。これが寛文6年(1666年)のころといいますからいまから324年前です。

 「赤館町」の名称は、初めここに住んだ人々が檜山の赤館町出身だったことから名づけられたのでしょう。しかし住人の顔ぶれが年々変わってきているのは当然です。

 享保13年(1728)作成の絵図では、町の東から順に、中田主鈴、中田五兵衛、大鐘主税、白坂杢助、佐良土一平、瀧田市兵衛、中田十兵衛、磯野治助、中田甚兵衛、吉田伝六です。また文化2年(1805)ごろの作成といわれる県立秋田図書館所蔵の絵図には同じく東から中田長蔵、石川権六、中田安五郎、嘉藤田文馬、白坂新九郎、鈴木道之亟、瀧田東馬、佐々木道也の8軒の名が記されています。

渟二小グラウンドの西南角からの家並み (20200627)



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