5 能代市街の変遷 (能代の歴史ばなしより)
5 能代市街の変遷
能代の市街絵図は、享保(きょうほう)13年(1728)に作成されたものが、井坂記念館に収蔵されています。現存する最古のもので、いまから262年前の能代の市街の姿を見ることができます。現物の寸法は縦106センチ、幅172センチの軸装(じくそう)で、これは庄屋三嶋勘左衛門(かんざえもん)、村井専右衛門(せんえもん)が調製し能代奉行武藤七太夫を通じて藩に提出したものの控え図です。
町は時代とともに膨張し周辺へ拡がっていきますが、能代の町の区割りや道筋等のおおすじは、享保時代も現在も格段に違ってはおりません。
変わった点といえば、柳町新道、大町新道ができ、疎開道路が設けられ、萩の台の墓地公園ができたことがまず上げられます。それらはいずれも明治以降の変化です。柳町新道は明治25年(1892)の国道開通に伴って開通した路線で、大町新道は明治33年(1900)の願勝寺火事のあとの火災善後策の1つとして新設された路線です。俗称疎開道路はその名のとおり太平洋戦争の遺物です。畠町から柳町へ下るタッペの坂を真直ぐに付け替えたのも同じころです。
昭和初期の出戸沼埋立てによる昭南町の誕生ということもあります。出戸沼は菅江真澄遊覧記には波耆能乃沼(はぎののぬま)として登場しています。萩の台の墓地公園の造成は第一次大火後の都市計画で中心部にあった寺院をすべて萩の台に移す構想によったものです。これが一番の変革でしょうか。
沼といえば能代はガマの多い町でした。国道開通とともに元は1つのガマが西光寺のガマ、新町のガマ、大政(だいまさ)のガマと3つに区分されました。柳町のガマは幕末には南岸に芝居小屋があったようですが、そこに明治期に原口(はらぐち)医院が開業したので原口のガマと呼ばれ、原口がなくなり、東側に岸医院ができると、岸のガマとも呼ばれていました。
八幡神社の参道東側には弁天池があって風情がありましたが、戦後住吉町に下水管が埋設されると、付近一帯の地下水位が低下し、渇水して埋め立てられてしまいました。
八幡神社の南に明治中期、演芸館米代座(よねしろざ)ができました。入りロは北向き、間口(まぐち)10間(けん)、奥行き15間で廻り舞台や花道もある劇場でした。米代座の前は広大な広場で、夏には恒例の大相撲の巡業地でした。米代座の西側も細長いガマでした。この劇場は大正10年1月6日夜、映画上映中にフィルムの引火で惜しくも焼失しました。
鎌倉時代の歌人鴨長明(かものちょうめい)の言い草を借りると「たましきの都のうちに棟(むね)を並べ甍(いらか)を争える高きいやしき人の住まいは世々を経て尽きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば昔ありし家は稀なり・・・・・住む人もこれに同じ・・・・・」です。時代とともに変わるという点で著しいのは、道筋よりもむしろ住む人だと言えましょう。住む人の生活の中身を、きちんと書き残しておく手立てがないものでしょうか。
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能代の市街絵図は、享保(きょうほう)13年(1728)に作成されたものが、井坂記念館に収蔵されています。現存する最古のもので、いまから262年前の能代の市街の姿を見ることができます。現物の寸法は縦106センチ、幅172センチの軸装(じくそう)で、これは庄屋三嶋勘左衛門(かんざえもん)、村井専右衛門(せんえもん)が調製し能代奉行武藤七太夫を通じて藩に提出したものの控え図です。
町は時代とともに膨張し周辺へ拡がっていきますが、能代の町の区割りや道筋等のおおすじは、享保時代も現在も格段に違ってはおりません。
変わった点といえば、柳町新道、大町新道ができ、疎開道路が設けられ、萩の台の墓地公園ができたことがまず上げられます。それらはいずれも明治以降の変化です。柳町新道は明治25年(1892)の国道開通に伴って開通した路線で、大町新道は明治33年(1900)の願勝寺火事のあとの火災善後策の1つとして新設された路線です。俗称疎開道路はその名のとおり太平洋戦争の遺物です。畠町から柳町へ下るタッペの坂を真直ぐに付け替えたのも同じころです。
昭和初期の出戸沼埋立てによる昭南町の誕生ということもあります。出戸沼は菅江真澄遊覧記には波耆能乃沼(はぎののぬま)として登場しています。萩の台の墓地公園の造成は第一次大火後の都市計画で中心部にあった寺院をすべて萩の台に移す構想によったものです。これが一番の変革でしょうか。
沼といえば能代はガマの多い町でした。国道開通とともに元は1つのガマが西光寺のガマ、新町のガマ、大政(だいまさ)のガマと3つに区分されました。柳町のガマは幕末には南岸に芝居小屋があったようですが、そこに明治期に原口(はらぐち)医院が開業したので原口のガマと呼ばれ、原口がなくなり、東側に岸医院ができると、岸のガマとも呼ばれていました。
八幡神社の参道東側には弁天池があって風情がありましたが、戦後住吉町に下水管が埋設されると、付近一帯の地下水位が低下し、渇水して埋め立てられてしまいました。
八幡神社の南に明治中期、演芸館米代座(よねしろざ)ができました。入りロは北向き、間口(まぐち)10間(けん)、奥行き15間で廻り舞台や花道もある劇場でした。米代座の前は広大な広場で、夏には恒例の大相撲の巡業地でした。米代座の西側も細長いガマでした。この劇場は大正10年1月6日夜、映画上映中にフィルムの引火で惜しくも焼失しました。
鎌倉時代の歌人鴨長明(かものちょうめい)の言い草を借りると「たましきの都のうちに棟(むね)を並べ甍(いらか)を争える高きいやしき人の住まいは世々を経て尽きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば昔ありし家は稀なり・・・・・住む人もこれに同じ・・・・・」です。時代とともに変わるという点で著しいのは、道筋よりもむしろ住む人だと言えましょう。住む人の生活の中身を、きちんと書き残しておく手立てがないものでしょうか。
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