みんなのプロレス 斎藤文彦

ハルク・ホーガン

 ハルク・ホーガンがちょいとトーキョーまでツナの刺し身を食べにきた。12歳になる長男ニコラスが自分もどうしてもジャパンに行くんだといってきかないので(略)いっしょに連れてきた。ニコラスはジャパニーズ・カーの大ファンでいつも家のなかでうわ言のようにトヨタRX7、ニッサンGTR、スープラ、マキシマなんてつぶやいているらしい。

(略)

 ホーガンは浦島太郎になっていた。アントニオ猪木がいないニュージャパン。ジャイアント馬場さんがいなくなったオールジャパン。長州力のワールド・ジャパン?小川直也はなにをやろうとしているんだ。新しいカンパニーとやらはプロレスなのか、それともプロレスではないサムシングなのか?K-1ってなんなんだ?PRIDEってだれなんだ――?

(略)

ニコラスもトーキョーが気に入ったみたいだし、かつてたくさんの時間を過ごした日本でもういちどプロレスそのものを楽しんでみるのもひとつの選択かもしれない。WWEとのコントラクトはあと数日で切れる。

 ホーガンは4泊5日のトーキョー滞在のあいだに集められるだけの資料をかき集めて、それを片っぱしから読みあさった。もちろん日本語は読めないから(略)

レイアウトされている写真とヘッドラインを穴が開くほどにらんだ。(略)

夕方からホテルで某テレビ局の関係者と会った。いきなり、ものすごい額のファイトマネーを提示された。アメリカでテレビのCMに何本か出演するのとほぼ同じくらいのギャランティーだった。

 土曜の夜、小川直也が訪ねてきた。一年まえ、"レッスルマニア16"の前日にトロントのホテルで会ったときよりもさらにシェイプアップしていて、顔つきがぐっとシャープになっているのがわかった。

(略)

小川は、ホーガンの息子ニコラスのためにニッサンGTRのラジコン・カーをおみやげに買ってきた。ホーガンは、柔道のワールド・チャンピオンだった小川をアメリカに連れていって大きなビジネスにしたいと本気で考えている。

 日曜の夕方、新団体W-1の関係者との2度めのミーティングがあった。(略)

プロデューサーらしき人物は「エンターテインメントです。ファンタジーです」を連発した。ホーガンは新しいカンパニーがいったいなにをプレゼンテーションしようとしているのか、またどうしてそこに"ハルク・ホーガン"が必要なのかをどうしても知りたかった。テーマのないイベント、ドラマのない闘いはプロレスとはいえない。

(略)

 新しいレスリング・オフィスなのかと思ってしばらくはなしを聞いてみたら、どうやらW-1は製作費の高いTVショーだった。民放ネットワーク局のプライムタイム番組だからかなりの予算が用意されているらしい。単発のイベントのため、出場選手とラインナップは既存のプロレス団体から買ってくるのだという。

 ホーガンは、デジャヴのような感覚のなかですべてを理解した。テレビ局のビッグマネーを湯水のように使い、視聴率を稼ぐためのTVショーとしてのプロレスをプロデュースしつづけた結果、アメリカのメジャー団体WCWはあっというまに消えてなくなった。テレビの画面のなかに納まるように加工されたプロレスは、プロレスのようにみえてプロレスではない。プロレスのようにみえてじつはプロレスではないプロレスとそっくりの映像は、"プロレス語"を話すプロレスファンとプロレスラーから"観るモチベーション"と"闘うモチベーション"を奪ってしまう。

 

 「あれから20年もたっちゃったなんて、信じられないよ。トゥエンティ・ファッキン・イヤーズだよ」(略)

アックスボンバーを食らった猪木が場外に転落して頭を打ち、舌を出して失神した。あの日からホーガンは有名人になった。武藤には悪いことをしてしまったかもしれないけれど、やっぱりどう考えても知らない人たちの知らないリングに上がることはできない。(略)ホーガンにはホーガンが考えるところのプロレスがある。

「それにしても猪木さん、どうしてサップの肩にのっかってダーッなんかやったのかな」

 六本木のブックストアでみつけたレスリング・マガジンのカラーグラビアには大みそかの"イノキ・ボンバイエ"のラストシーンの写真が載っていた。(略)

ホーガンは外の景色をながめながら、ちょっとさびしそうな顔をした。

(03年1月)

テリー・ファンク

 テリーの自伝本『モア・ザン・ジャスト・ハードコア More Than Just Hardcore』がアメリカで出版された。タイトルはテリー自身が考えた。(略)

テリーはこの本のなかでプロレスそのものについて語っている。

「プロレスは変わった。時代が変わった。時代とともに自分も変わらなければならない。しかし、変わるにはどこに向かってどう変わるかを考えなければならない」

 テリーは、プロレスとかかわっていくうえでいちばん大切なことは"suspension of disbelief"であると力説する。これはひじょうに日本語に訳しにくい表現である。

(略)

18世紀のイギリスの詩人・哲学者サミュエル・テイラー・コールリッジの"willing suspension of disbelief"という有名な言葉は、日本では一般的に"(小説などの)虚構を信じること"と訳されている。

(略)

ほんのしばらくのあいだ、疑いや先入観を捨ててリングの上をながめてみること。そうすると、いまそこにあるプロレスと自分の関係がはっきりとみえてくる。

(略)

「レスリング・イズ・レスリング。プロレスはプロレスだもん。プロレスとプロレスでないものをいっしょに並べて売ったらダメだよ。買うほうが混乱するだけだから」(略)(05年8月)

テッド・デビアス

テッド・デビアスが"座長"をつとめるPWA(パワー・レスリング・アライアンス)はインディー系のプロレス団体ではなくて、プロレスを通じて神からのメッセージ、聖書の教えを説くクリスチャン団体の正式名称である。

(略)

 PWAの"地方公演"はプロレスの試合と礼拝の2部構成になっている。メインイベントの試合終了のゴングがそのままデビアスのスピーチのイントロダクションになる。デビアスは"悪徳プロモーター"で、スキットの途中でデビアスの敵役としてニキタ・コロフが登場してくる。デビアスとニキタの会話が自己の解放、神への祈りへとつながっていく。

(略)

"ミリオンダラー・マン"としての成功はデビアスのそれまでの生活のすべてを変えてしまった。スーパースターになったデビアスは(略)妻ではないたくさんの女性たちと関係を持ってしまった。デビアスはすべての罪を妻に告白し、ジーザス・クライストに救いを求めた。

 真っ暗なリングの上にピンスポット照明が当たり、悪徳プロモーター役のデビアスが無名の若手レスラーの耳元でこうささやく。

「キミをマディソン・スクウェア・ガーデンのリングに上げてやろう。ミリオンダラーの契約書を用意したぞ」

 無名の若手レスラーはこう答える。

「お金も、リムジンも、自家用ジェット機も欲しくありません」

(略)

「彼=神はミリオンダラー・マンのあなたでさえ持っていないあるものを持っているのです。それは"パワー"です」(略)

気がつくと、その若者と同じ志を持つ若手レスラーたちがリングの周囲をとり囲んでいる。(略)

 ニキタは語りはじめる。

「オレはマネーも、高級車も、大きな家も手に入れた。しかし、欲しかったものが手にはいって、オレは初めて気がついた。オレはなにも手に入れていなかったんだと。それがわかった瞬間、人生が変わった。ここにいる若者たちはみんな、お前が持っていないものを持っている。それは"神のパワー"だ」

 ニキタは悪徳プロモーターのデビアスに対し信仰の力を説く。デビアスもまた"神のパワー"にめざめた自分自身をカミングアウトさせる。新約聖書の"ヨハネ記3・16"の朗読がはじまる。

デビアスが観客に問いかける。

「神の許しを請う人びとはリングのなかへ」

リングの周りをとり囲んだ若手レスラーたちといっしょに観客がいっせいにリングにかけ上がってくる。デビアスが神への祈りをささげ、プロレスを題材とした寸劇はここで終わる。(略)(01年12月)

カール・ゴッチ

 "神様"の本名はカール・イスタス。1924年8月3日、ベルギーのアントワープ生まれで、エスニック・バックグラウンドはドイツ系ハンガリアン。レスリングをはじめたのは10歳のときで、片道1時間ずつの距離を毎日歩いて道場に通った。家が貧乏だったため、10歳までしか学校には通わなかった。

(略)

「レスリングで生計を立てたいと考えるようになったのはキャンプを出たあと」と話していた。(略)

少年時代の数年間をドイツ・ハンブルグの強制収容所で過ごし、いったんベルギーに帰国後、もういちどドイツのカーラという町の収容所に連れていかれた。ベルギー生まれのゴッチさんがナチスのキャンプに収容されていた理由は判然としない。17歳だったゴッチさんは、強制労働で鉄道の線路を組み立てる仕事をしていたとき、機械にはさまれて左手の小指を失った。(略)

45年4月、アメリカ軍によって強制収容所から解放された。(略)

 第二次世界大戦が終わったとき、ゴッチさんは21歳だった。ベルギーでフリースタイル、グレコローマンの2種目でナショナル・チャンピオンシップを獲得したのは45年から50年までの6年間だったというから、21歳から26歳まではまだアマチュア・レスリングに打ち込んでいたことになる。ベルギー代表としてロンドン・オリンピック(48年)に出場したのは24歳のときで(略)フリースタイル=ライトヘビー級10位、グレコローマン=同8位という成績だった。オリンピック出場時、ゴッチさんはチャールズ・イスタスというドイツ名を名乗っていた。[「金メダルは獲れなかった」ことを理由に]ゴッチさん自身はオリンピックの思い出についてはなぜかあまり多くを語らなかった。(略)

レスリングのプロになったのは50年ごろで、西ヨーロッパをサーキット後、イングランド・ウィガンのビリー・ライレー・ジム"スネークピット=蛇の穴"にたどり着き、51年から59年までの約8年間をウィガンで過ごした。"蛇の穴"の道場でゴッチさんとビル・ロビンソンの伝説のスパーリングがおこなわれたことは事実だが、このときゴッチさんは29歳で、ロビンソンはまだ15歳の少年。ふたりはトシの離れた兄弟、あるいは親せきのような関係だった。

(略)

 ゴッチさんがそのトレードマークである関節技の奥義をマスターした場所がウィガンの"蛇の穴"であったことはほぼまちがいない。ただし、"蛇の穴"はいわゆるプロレスのジムではなくて、ランカシャー・スタイルのレスリングを教える田舎の町道場だった。

 ここでゴッチさんは(略)イングランドの"文化遺産"としてのキャッチ・アズ・キャッチ・キャンを学び、これを現代のレスリング技術にアダプトした。キャッチ・アズ・キャッチ・キャンの関節技は、アマチュア・レスリングが放棄してしまった"失われたアート"だった。

 ゴッチさんは59年、イングランドからカナダ・モントリオールに渡った。初来日はそれから2年後の60年(昭和36年)。

(略)

カール・クラウザーというリングネームを使っていたゴッチさんに"ゴッチ名"を与えたのはアル・ハフトで、"20世紀のアメリカン・プロレスの父"フランク・ゴッチとゴッチさんのイメージが重なるというのがその理由だった。ハフトも現役時代、ヤング・ゴッチというリングネームを名乗っていた。

(略)

 佐山聡がプロレスとは異なる格闘技、シューティングを開発したときは「シュートはレスリング・ビジネスの隠語。卑しい単語だ。狙撃でもするつもりか」とそのネーミングに疑問を投げかけた。(略)(07年8月)

フレッド・ブラッシー

 アスリートとしてのピークにあたる20代と30代前半のほとんどをブラッシーはあまり売れないジャーニーマン(旅がらすレスラー)として過ごした。テレビが一般家庭に普及しはじめた50年代にはいり、南部ジョージアでその人気に火がついた。ブラッシーはTVカメラに向かってマイクアピールをした最初の悪役レスラーのひとりになった。赤毛だった髪をブロンドに染めたのもこのころだ。

 スーパースターとしてはきわめて遅咲きの部類にはいる。61年6月、ロサンゼルスでエドワード・カーペンティアを下しWWA世界ヘビー級王座を獲得。翌62年、同王座をめぐりロサンゼルスと東京で"プロレスの父"力道山と大流血マッチを演じたときはすでに44歳だった。

(略)

71年8月27日、宿命のライバルであるジョン・トロスとのシングルマッチがロサンゼルス・コロシアムに2万5847人の大観衆を動員したときは53歳になっていた。トロスとの試合はカリフォルニア州のインドア・スポーツ観客動員記録を樹立し、この記録は現在でも更新されていない。

(略)

 65年の来日のさいは、東京駅の新幹線のホームで日本人女性の三耶子さんと出逢った。文通をつづけているうちに音信不通になってしまった三耶子さんを探すため、ブラッシーは3年後の68年にわざわざ日本まで"理想の女性"を探しにやって来た。ラストネームもわからない三耶子さんを発見してくれたのは日本プロレスのレフェリー、ジョー樋口さんだった。

(略)

 伝説のコメディアン、アンディ・カウフマン(故人)が"マイ・ブレックスト・ウィズ・ブラッシー"という短編映画をつくった。

(略)

 28歳年下の"理想の女性"三耶子さんとの結婚は、じつは銀髪鬼にとっては3度めのウェディングだった。現役引退後は、WWEで悪党マネジャーに転向。少年時代からブラッシーの大ファンだったというビンス・マクマホンは、父ビンス・シニアの遺言に従いブラッシーが亡くなるその日までファイトマネーを支払いつつけた。享年85。

(03年6月)

バンバン・ビガロ

 バンバン・ビガロはよく「オレはビリーバーなんだ」と語っていた。(略)

「飛行機が山かどこかに落っこちるんだ。乗客、乗員とも全員死亡。でも、オレだけはなぜか助かっちまうんだ。オレはほんとうにそれを信じてる。アイム・ア・ビリーバー」(略)

 スコット・ビグローは18歳のときに頭のてっぺんにタトゥーを彫った。

(略)

 ネプチューン・ハイスクール時代はアマチュア・レスリングでニュージャージー州選手権3位になったことがあるが、学校というところでスポーツをやるのはどうしても好きになれなかった。ハイスクールを卒業するまえにバイカーの仲間たちに誘われてバウンティ・ハンター(賞金稼ぎ)の仕事を手伝うようになった。(略)

警察も二の足を踏むようなヤバイ場所に足を踏み入れ、ヤバイ人物を連行してくる仕事だから、その任務はかなりの危険をともなう。

 撃たれたこともあったし、撃ってしまったこともあった。いったいどっちがグッド・ガイで、どっちがバッド・ガイなのかわからなくなることがよくあった。気がついたら、十代の終わりを塀のなかで迎えていた。

 なにかちゃんとした仕事はないか、自分のためにもなって家族にも喜んでもらえる仕事はなんだろうと考えたらプロレスがあった。

(略)

WWEはまるで軍隊みたいなところで、"兵士"は一日24時間態勢で監視下に置かれ、"上官"の命令には絶対服従。ECWはベースボールにたとえると自給自足の貧乏クラブチームで、WCWは仲がいいはずのボーイズとボーイズがおたがいの足をひっぱり合う奇妙な空間だった。

 北尾光司のデビュー戦の相手をつとめたあと、ビガロは日本に定住して大相撲へ入門することを本気で考えたことがあった。このスモウ・レスラー転向プランは、知人の「相撲の土俵ではタトゥーはご法度」というアドバイスでNGになった。

(略)

 "レッスルマニア11"のメインイベントで元NFLニューヨーク・ジャイアンツのローレンス・テイラーと対戦したとき、ビガロは100万ドルのファイトマネーを手にした。たった1試合でミリオネアーになれたのはラッキーだったけれど、ビガロは試合が終わったあと「もうこんなことはやらない」とつぶやいた。"旧ソ連"のサルマン・ハシミコフのときもそうだったし、北尾のときもそうだった。ビガロは"便利屋"としてのポジションに嫌悪感を抱いていた。

(略)

 15年間、バンプをとりつづけたことで380ポンドの巨体とそれを支える心とが別べつのことを考えるようになっていた。

(略)

 40歳のときにペンシルベニアではじめた"ビガロズ・デリ"というサンドウィッチと惣菜のお店は一年ももたなかった。(略)

 弁護士になったカミさんは、かつてのスーパースターがなんにもしないでゴロゴロしていることを許さなかった。そしてある日、ビガロは家を追い出された。いまから10年くらいまえにカミさんが「ロウ・スクールに通う」といい出したとき、学費を出したのはビガロだったが、えらくなったのはカミさんだけだった。

 離婚してから4年間、3人の子どもたちとはいちども会うことができなかった。ずっと養育費を滞納していたから、それは仕方がないといえば仕方のないことだった。身軽になったビガロは、ハーレー・ダビッドソンに乗っかってニュージャージーからフロリダへ南下した。98年モデルのチョッパー・ハンドルのハーレーはビガロの巨体にはやさしかった。(略)

 05年10月(略)スリップ事故を起こし、後ろに乗っていたガールフレンドが全身打撲で重体となった。バイクの免許はとっくに失効していたし、ニュージャージー州のドライバーズ・ライセンスは"免停中"。酔っぱらい運転だったし、スピード違反もしていた。(略)

公判中に裁判所への出廷をブッチした。大ケガをしたガールフレンドの親族からは民事訴訟を起こされたが、それもブッチした。ありとあらゆるトラブルが束になって追いかけてきた。

(略)

 それでも、気が向くとフロリダのインディー団体の試合会場に顔を出すこともあった。(略)

 なんでもない金曜日の朝、ビガロは同居中だった新しいガールフレンドのアパートメントで眠ったまま息をひきとった。

(略)

 [故郷]アズベリーパークのお墓のまえには黒塗りのハーレーが列をなし(略)"部族"をあげて故人との別れを惜しんだ。

 ビガロはこの町のバッドボーイズのヒーローだった。(略)(07年2月)

アーニー・ラッド

"ビッグ・キャット"と呼ばれた黒人エリート

 ラッドは1938年、ルイジアナ州レイビル生まれ。(略)

ハイスクール時代にバスケットで活躍(略)

 グランブリング大は(略)選ばれし黒人だけが通う特別な大学だった。(略)

入学後、「学食が食べ放題になる」という理由で(略)フットボールに転向(略)

エリート・アスリートだったラッドが人権運動にめざめたのもチャージャーズ在籍中のことだった。64年(略)AFLオールスター・ゲームに選出されたラッドは、人種差別を受けたことを理由に試合出場をボイコット。

(略)

[フレッド・ブラッシーに誘われ]

ラッドはプロレスをやってみようと決心してから初めてプロレスの試合を観戦した"後天的プロレスラー"だったが、レスリング・ビジネスのサイコロジー=観客心理をすばやく学習した。それは文字どおりの皮膚感覚だった。

 全米各地のプロモーターは現役の花形フットボール・プレーヤーのラッドにベビーフェース的ポジションを求めたが、ラッド自身はベビーフェースを演じることを嫌悪した。

 60年代のプロモーターは黒人レスラーをヒールとして使うことをためらい、タブー視していた。ラッドと同じ時代を生きたボボ・ブラジル、ベアキャット・ライト、アート・トーマスといった黒人のスーパースターたちはいずれも典型的なベビーフェースだった。

 ラッドは、アフリカン・アメリカンのベビーフェース対アフリカン・アメリカンのヒールという新しい図式をプロレスのリングに持ち込み、みずからはヒール役を買って出た。

 プロ・フットボール時代の平均年俸は約6万ドルだったが、フルタイムのプロレスラーに転向した70年の年収は9万8000ドル、翌71年にはそれが15万ドルにハネ上がった。プロレスとはサイコロジーのビジネスなのだということをラッドはだれよりもよく知っていた。

 

 ラッドは、どこにいるのかはわからないけれどいつも自分のそばにいる、目に見えない"巨大な敵"と闘っていた。自由と平等の国アメリカには差別はないことになってはいるけれど、それは頑丈なプロテクターを身にまとってどこかに隠れていて、チャンスさえあればラッドの"巨人ボディー"にタックルをぶちかましてきた。

 ラッドとラッドと同じ時代を生きたアフリカ系アメリカ人のエリート・アスリートは、"選ばれし者"であることと(白人と)"平等"であることとの微妙なニュアンスのちがいにほんろうされた。

(略)

 貧しい家庭で育ったラッドが学費を免除され大学の教育を受けることができたのも、カレッジ・フットボールの花形選手からプロ・フットボールのスーパースターへの道を歩むことができたのも、ラッド自身が"選ばれし黒人"の代表のような存在だったからだ。

 "平等"と記されたピカピカのステッカーをはがしてみると、その下には"差別"という刻印が押してあった。それは、だれもがわかっていることなのにだれもが知らんぷりを決め込む、アメリカ社会の奥底に潜むダブル・スタンダードだった。

 毒をもって毒を制すじゃないけれど、ラッドはこのダブル・スタンダードを巧みに利用してダブル・スタンダードそのものと闘いつづけた。

(略)

観客のサイコロジーをつねにコントロールしているのはベビーフェースではなくヒールのほうだった。"ビッグ・キャット"は黒人の観客からも白人の観客からも平等にブーイングを浴びることを望んだ。

 政治とのかかわりは(略)64年のオフ・シーズンからはじまった。ラッドはヒューストンの大プロモーター、ポール・ボーシュからのちの第41代合衆国大統領ジョージ・H・W・ブッシュを紹介された。

 66年、上院選に出馬したブッシュは、テキサス州の黒人有権者の"票固め"のためラッドを選挙運動のキャンペーン・パートナーに指名したが、「共和党は大嫌い」なラッドは"パパ"ブッシュのオファーを断った。ラッドのファンになったブッシュはその後、「ウチのドラ息子を頼む」といってまだ20代だったジョージ・W・ブッシュをラッドが運営する"青少年育成プログラム"で働かせた。ラッドと未来の合衆国第43代大統領は友だちになった。

 ラッドは84年、46歳で現役を引退し、ホームタウンに近いルイジアナ州フランクリンでプロテスタントの牧師としての仕事をはじめた。(略)

 96年の大統領選ではかつて「大嫌い」だった共和党のボブ・ドール候補の選挙キャンペーンに参加した。このときの副大統領候補はラッドのチャージャーズ時代のチームメートで、プロ・フットボールを引退後、政界に進出したジャック・ケンプだった。00年の大統領選では"親友"ブッシュのキャンペーン・パートナとしてアメリカじゅうをまわった。(略)(07年4月)

カート・ヘニング

 プロレスラーを父に持つヘニングは、ハイスクール時代から地元ではちょっとした有名人だった。16歳のときにボーリング場の駐車場でのちのホーク・ウォリアーと殴り合いの大ゲンカをした。ホークのよこには親友のスコット・ノートンが仁王立ちしていた。

 ヘニングが通ったロビンズデール・ハイスクールの同級生ではリック・ルード、トム・ジンク、ブレデイ・ブーンの3人がプロレスラーになった。ルードは40歳でドラッグ中毒でこの世を去り、ブーンも5年まえにフロリダで交通事故死した。ジンクはもうリングに上がっていない。

(略)

家族と友人と仕事に対してつねにフェイスフルだった。(略)

いたずら好きでジョイフル。(略)後輩たちの成功にジェネラスでありつづけた。

(略)

 首と腰の負傷で一時、リングを離れていたヘニングは地元ミネアポリスの"ブラッド・レイガンズ道場"でドン・フライ、ブライアン・ジョンストン、ブロック・レズナーらにレスリングの手ほどきをした。ヘニングにとって"教えること"と"与えること"は無条件の喜びだったようだ。(略)(03年3月)

ロード・ウォリアーズ

(略)

 WJプロレスは、ロード・ウォリアーズにとってはいちばん新しいリング、ブランドニュー・スタートである。長州力。天龍源一郎。佐々木健介。おもな登場人物はホークがよく知っているボーイズばかりだ。マサ斎藤のプロデュースで、健介をパートナーにウォリアーズとそっくりのタッグチーム、ヘルレイザースを結成したのがもう10年もまえのことだなんてなんだか信じられない。

 ロード・ウォリアーズはこの世でホークとアニマルのふたりしかいない。あっというまとはいわないけれど、マイク・ヘグストランドとジョー・ローリナイティスがホークとアニマルに変身して20年という歳月がたった。兄弟みたいに仲がよかった時代もあるし、あまり会話を交わさなかった時代もあった。

 ナンバーワンでありつづけることよりも、オンリーワンであることのほうがずっと大切なんだと考えるようになった。ホークにとってのアニマル、アニマルにとってのホークは、いつまでもオンリーワンの関係。ウォリアーズもまたオンリーワンである。

 ある日、ホークはアニマルに教会に連れていかれた。牧師さんはかつてのライバルで、元プロレスラーのニキタ・コロフだった。ホークは生まれて初めてバイブルを読んだ。どのページを開けても"自分みたいな男"が出てきた。ホークは神にめぐり逢い、生きることにどん欲になった。(03年3月)

 

(略)

20年もコンビ組んでいると、おたがいにこまかいディテールについていちいちうるさいことはいわないようになる。とりあえずひとことだけアドバイスはしておくけれど、束縛はしないということらしい。

(略)

 アメリカでは毎週、週末になるとどこかの州のどこかの空港のバゲージクレームで待ち合わせをして、きっちりと割り勘で1台のレンタカーを借りて試合に出かけていく。(略)ふたりが顔を合わせるのはロードに出ているときだけだ。

(略)

 こんないい方をすると相棒がムカッとするとか、こういうふうにいえば相手にちゃんとメッセージが伝わるとか、ふたりにしかわからないツボというものがある。年齢ではホークが3歳上だけど、どちらかといえばアニマルのほうがボスみたいにふるまう。人間関係でも食べものの好みでもイエスとノーがはっきりしているのがアニマルで、ホークはたいていのことには柔軟に対応できる。

 アニマルは競争意識が強くて、ホークがジムでいつもより重いダンベルを持ち上げているところを目撃したりすると自分からは「もう帰ろうよ」なんて絶対にいわない。アニマルのルーツはリトアニア人で、ホークのアンセスター(祖先)はスウェーデン人。ホークはそれほど食事に気をつけなくても体脂肪率はいつも15パーセント未満で、筋肉といっしょに全身に血管が浮き出てくるが、アニマルはホークと同じようにトレーニングをしても筋肉に厚みと丸みが出て、ちょっと油断していると太る。

 ホークが「オレは北欧系で、お前はロシア系。骨格も肌の色も微妙にちがう。遺伝子のせいだからしようがない」といくら説明しても、アニマルは「いや、オレのほうがいい体だ」といってきかない。20年もつづけてきた議論だから、結論なんてない。じっさい、ベンチプレスをやらせたらホークよりもアニマルのほうがはるかに怪力だということはわかっている。

(略)

「なあ、アニマル、オレはアメリカに帰ったらカーディオ(循環器系)のエクササイズをもっとやるよ。やっぱり、スタミナ落ちたよ」

 たったこれだけのコメントで、ホークが伝えたいことはちゃんとアニマルに伝わる。ホークが"バイクこぎ"をはじめるといえば、なにもいわなくてもアニマルもコンディショニング・トレーニングをおっぱじめるに決まってる。ホークとアニマルは、おたがいのかゆいところをよく知っている。(08年4月)

 

(略)

あたりまえのことだけれど、シカゴのスラム街育ちで少年時代はネズミを食って暮らしていたというプロフィルはまるっきりのファンタジーで(略)[二人とも]ごくふつうの家庭で育った。

 ロード・ウォリアーズは、ほとんど偶然みたいな感じで誕生した。ふたりのプロレスの師匠であるエディ・シャーキーは、レスリング・スクールの同期生だったホークとリック・ルードにコンビを組ませてタッグチームとして売り出す計画を立てていた。ジョージアのプロモーター、オレイ・アンダーソンはホークとアニマルのコンビのほうがおもしろそうだと考えた。

(略)

[シャーキーは]ジムやバーでプロレスラーになれそうな体の大きい若者を発見すると、すぐに「プロレスをやらないか」と声をかけた。ジェシー・ベンチュラ前ミネソタ州知事も、シャーキーのあやしいコーチを受けてプロレスラーになったひとりだ。

 約6カ月間のトレーニング・セッションを終えたホークは、シャーキーのブッキングでカナダ・バンクーバーのインディペンデント団体に送り込まれた。リングネームはクラッシャー・フォン・ヘイグ。時代遅れの"ナチスの亡霊"キャラクターだった。新人レスラーの生活の苦しさを学んだホークは、たった6週間で荷物をまとめてミネアポリスに帰ってきた。

 アニマルもザ・ロード・ウォリアーのリングネームでノースカロライナにブッキングされたが、やっぱり日払いのファイトマネーだけでは生活できなくてすぐにミネアポリスに戻ってきた。アニマルは、ホークとめぐり逢わなかったら大学にでもいってフットボールをやるつもりだった。

(略)

 ホークというリングネームは、ホークとシャーキーの合作だった。のちのダブル・インパクトのモチーフとなるトップロープからのフライング・クローズラインは、獲物を狙って大空から地上に舞い降りてくる鷹をイメージさせた。ホークは、練習生だったころからジムでこの技を試していた。

 ロード・ウォリアーズのビジュアルは、ちょっとずつ進化していった。はじめは短いクルーカットに革キャップ、革グラブ、革ベスト、革パンツをすべて黒で統一したハーレー系バイカーのキャラクターで、そのあとは映画『マッドマックス』の近未来SFバイオレンスをイメージしたスパイク・プロテクターをリングコスチュームにした。

 トレードマークとなった顔のペインティングも、どちらかといえば偶然の産物だった。(略)ルイジアナのプロモーター、ビル・ワットがアニマルとホークに「目の下を黒く塗ったほうがいい」とアドバイスした。理由は、ホークの顔つきが「やさしすぎるから」だった。

 アトランタでロード・ウォリアーズに変身したとき、ホークは26歳で、アニマルは23歳だった。何度か大ゲンカをしてチームを解散しそうになったこともあるし、きれいさっぱりプロレスをやめてしまおうと話し合ったこともあった。

(略)

20年という歳月はふたりをベスト・フレンズにした。アニマルが「あしたも早いから外出するのはやめようぜ」といえば、ホークは「じゃあ、オレは一杯だけ飲んでくる」と答えた。たったそれだけの会話でふたりはおたがいのことをちゃんと理解することができた。

 その日、ホークは新居への引っ越しの準備をしていた。気分が悪くなったホークは「2時間後に起こしてくれ」とデール夫人に伝えて、ベッドルームでよこになった。そして、そのまま帰らぬ人となった。ホークの"抜け殻"は翌日、だびに付された。46歳だった。(03年10月)

 

(略)

WWEに在籍していた92年の夏にいちどチーム解散の危機に直面した。アニマルが尾てい骨を骨折して試合ができなくなり、ふたりはそのままWWEを退団した。

 アニマルが保険金を支給されて"障害者"となったため、ホークも仕事を失ってしまった。

(略)

 ミネアポリスに帰ってプータローみたいな生活をしていたら、マサ斎藤が新日本プロレスとの専属契約のオファーを持ってきた。佐々木健介にウォリアーズのような衣装を着せて、ウォリアーズみたいなチームをつくりたいというはなしだった。

 企画段階でのチーム名はニュー・ウォリアーズだったが、マイクは「それはできない」と断った。(略)

マイクは、六本木の(略)"ミストラル"というバーのカウンター席に座っていた。

 ケンスキーとのタッグチームの正式名称がなかなか決まらなかった。カウンターの奥のスピーカーからご機嫌なハードロックが流れてきた。なんだかいい曲だなと思ったマイクは、「いまかかってるこの曲、だれ?」とバーテンダーにたずねた。バーテンダーは「オジーですよ。オジー・オズボーン」と答えた。(略)

「オジーのなんて曲?」とまたバーテンダーに聞いてみた。(略)

曲名は"ヘルレイザー"だった。マイクは「これじゃん That's it」といってにっこり笑った。こうして、ザ・ヘルレイザースというチームが誕生した。

(略)

 アニマルが「またロード・ウォリアーズでツアーをやろうぜ」と連絡してきた。WCWとWWEのオプシヨンがあったが、アニマルは中途半端な形でフェードアウトしてしまったWWEでのカムバックを望んだ。

 ホークは、ビンス・マクマホンをぶん殴ってしまったことがあった。まるで子どものケンカみたいな感じだった。(略)

マイクは「ビンスなんか大嫌いだ。あの髪形が嫌いだ」といつも口にしていた。それは、ビンスがプロモーターのくせにプロレスラーみたいにふるまうからだった。でも、友だち付き合いをしていたときもあるのだろう。(略)ほんとうに仲が悪かったらいっしょにスキーになんか行くはずない。

 けっきょく、WWEにいたのはそれから2年くらいで、こんどはマイクが「オレはやめる」といい出して、アニマルが「もうちょっと我慢しよう」と相棒を説得した。でも、ホークが「絶対にやめる」といったらアニマルもそうせざるを得なかった。

(略)

ビンスの子飼いの放送作家チームは、ホークに"アルコール依存症"という屈辱的なスキットを演じさせた。ビンスは、連続ドラマのストーリーラインのなかで"ウォリアーズ伝説"を破壊しようとした。

 マイクは3年まえにオーストラリア・ツアー中に心臓発作を起こして、生死のさかいをさまよった。現地の病院に10日間ほど入院させられたとき、アニマルといっしょにずっと病室に付き添ってくれたのがカート・ヘニングだった。

 マイクとカートは同い年で、地元ミネアポリスではすぐ近くのハイスクールに通っていたこともあって十代のころから友だちだった。カートの父親ラリー・ヘニングが有名なプロレスラーだったから、ヘニングはどこかそれを鼻にかけていたらしい。

 高校3年生のとき、近所のボーリング場の駐車場でケンカをしたことがあった。でも、それからは仲よくなった。ヘニングが"急性ドラッグ中毒"で死んだとき、マイクは「あいつは、起きなかっただけだ。朝になったら起きればよかったのに」と悲しんだ。

(略)

マイクはカートとまったく同じように、ある日、眠ったまま起きてこなかった。

(03年10月)

 

(略)

アーミーに入隊した22歳の長男ジョーは約一年間のイラク駐留を終えて、いまはドイツの陸軍駐屯地にいる。(略)11ヵ月間、ファルージャに派遣されていた。

「電話ができない。郵便も届かない。メールもつながらない」

 アニマルと妻ジューリーさんがていねいにダンボール箱につめてイラクに送ったコンパクトDVDプレーヤー、ヘッドフォン、CD、アメリカの雑誌、日用雑貨などはやっぱり息子の手には届かなかった。

 ホーク・ウォリアーの葬式があった朝、長男ジョーはひょっこりミネソタに帰ってきた。ジョーはホーク、というよりもマイク・ヘグストランドをほんとうの叔父のように慕っていたから、マイクと最後のお別れすることができたのはよかった。でも、それまで連絡がとれなかったジョーがいきなり家に戻ってきたのは不思議といえば不思議だった。

 ホークは自分の死が近づいていることを知っていた、とアニマルは考える。その前日、ふたりは電話で10分くらいおしゃべりをした。ホークは「引っ越しは大嫌いだ。もう二度とするもんか」と宣言してから「でも、ベッドと家具と大きな荷物だけはオレが運んでやらないとね」といって電話を切った。そして、ホークは家具と大きな荷物を新居に運び込んでからデール夫人に「ちょっと休けい」と伝え、ベッドによこになり、そのまま帰らぬ人となった。

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 ローリナイティス家の5人家族は、7年まえにみんなでクリスチャンになった。アニマルのハイスクール時代からの親友で、プロレスをやめて牧師になったニキタ・コロフから一冊の本をプレゼントされたのがきっかけだった。アニマルは「読んでみろ」といってホークにもそれを渡した。アニマルよりも先にホークが"神の本"にハマッた。(略)

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