バンドやめようぜ! その2

前回の続き。

シーン内の政治をさばくには

 ギグは終わったものの、それとは別にちょっとしたパフォーマンスが始まりつつある。会場スタッフはテーブルや椅子を引っ張り出し、つまみを用意している。イベント主催者はまだ居残っている観客やバンドの連中をライヴ後もまだお酒を飲むつもりの面々、あるいは帰ろうとしている人々とに必死な形相で仕分けようとしていて、前者からは酒代を集め、そして後者にはお礼の言葉と元気でねの挨拶をかけている。

 観客に混じったふたりの若い青年がミュージシャンのひとりに声をかけようと辛抱強く待っている。彼は共演バンドのひとつの友人の一群を相手に愛想を振りまくのに忙しい。彼はアルバムを出したばかりのところで、ヴィデオはスペースシャワーTVで何度か放映されている。いまや友人連中よりもちょっとばかり有名というわけだが、あちらの方が歳上なので彼は礼儀正しいままだ。彼の友人連中が終電をつかまえて家に帰らなくてはいけないのは、次の日に新作アルバムのレコーディングが控えているからだそうだ。彼らはなにげないふりでレコーディングのエンジニアの名前をわざわざ持ち出すが、そのエンジニアはスペースシャワー君よりももっと年配かつ有名な御仁だ。

 チャンス到来とばかりに、若いふたり組は彼に近寄っていき彼のバンドのセットにお祝いを述べる。(略)

彼らはそのミュージシャンが以前に所属していたのと同じ大学の音楽同好会メンバーで、彼のバンドはふたりにとっての大きなインスピレーションだ。彼らが企画するイベントにもしも彼に出演してもらえたとしたら、彼らにとっては非常に名誉なことになる。

 そのミュージシャンはふたりの若者からの賞賛の声をあたかも自分に寄せられて当然な賛辞を受けているに過ぎないといった余裕の雰囲気で受け止めているが、イベントの話題が持ち上がった途端に、彼はふたりの話をさえぎる。

 「あのさ」、と彼は言う。「この段階で僕らが君たちと一緒に演奏するのって、とにかく間違いなんじゃないのかな。その手の誘いを僕たちにお願いするには、君たちはまだ早過ぎ、そのレベルには達していないんだから」。

 ふたりの若者はうなずき合いながら、謙虚な面持ちで大失態をおかしてしまったと自覚している。

(略)

たぶん彼らがシーンでしばらくの間がんばってみて、自分たちの立ち位置に近いバンドたちともうちょっと付き合ってみたら、いつの日か彼のバンドが出演するライヴで前座を務めるチャンスをつかめるかもしれない。その日が訪れるまではしかし、彼らは自分たちの分をわきまえなければならないのだ。

 その晩のライヴ主催者が割り込んできて、若者ふたりに打ち上げにも参加するつもりかと尋ねる。彼らは表情を感謝の笑顔に整え直し主催者にいそいそと金を払う。会場内にはまだたくさんの人々が残っているし、ふたりはコネを作るのに手一杯になりそうだ。

 

 東京でイベントを企画する際には、単純な収支計算以上の多くのファクターも考慮に入れる必要がある。個人的には、僕は自分のイベントをほぼ毎回東京の高円寺で開催してきた。なぜかと言えば僕は怠惰だから:自分の住居から10分以上歩かなければならない会場は遠過ぎる。それに(略)[街そのものも素敵で]中心街寄りなエリアにある会場では滅多に味わえない親密なフィーリングを添えている。

 新進イベント・オーガナイザーが検討するファクターには他にこんなものがある:会場のスタッフは親切か?自分がブッキングしようとしている種類のバンドのファンたちの間でその会場はよく名が通っているだろうか?ドリンク料金はどんな感じ?トイレの臭いはどういうことになっているのか、またトイレ配置はライヴを観るのに都合がいいか?

(略)

 ミュージシャンで音楽ジャーナリストの青木竜太郎はアメリカで育ったものの日本に帰国後はミュージシャンとして経験を重ねてきた人間で、彼は日本のアンダーグラウンド音楽が世界に向けて表に出しているワイルドで奔放な顔つきは、しばしば意外なくらいにコンサバな社会的潮流を隠していると感じてきた。

「インディあるいはオルタナティヴ・バンドの活動はこうあるべきだみたいなやり方が、ナンバーガール/くるりの頃、2000年に入ってすぐ後くらいに固まったんです(略)ノルマを払い、打ち上げ (アフター・パーティもしくはライヴ後の飲み会のこと)に行き、他のバンドと知り合いになる、と。 とても通り一遍で」。

 この人脈作りのプロセス、あるいは青木が言うところの「チンポしゃぶりのおべっか使い」は、序列の中でそのバンドが先輩か後輩かをベースにした社会的な力関係とも関係している。

(略)

 とはいえ誰もがこの序列システムに賛同しているわけではない。ナンバーガールやパニックスマイルといったバンド周辺に集まった博多ノー・ウェイヴ・シーンには、彼らより古株な福岡のめんたいロック・シーンに築かれた閉じた序列型カルチャーに対する反動という側面も一部あった。

(略)

 「バンドには二種類あって」と、メルト・バナナのAGATAが説明する。「まず、イベントを企画しコミュニティを生み出しながらそうやって努力しているバンドたちがいます。それから僕たちみたいに、招かれればライヴをやりますよ、というバンドがいる。でも僕たちは、誰かからライヴ出演を依頼されたくて、わざわざ先方に贈り物を送ったりはしません、と」。

 東京で自分のイベントをブッキングし始めた頃に僕を見舞った大きな問題は、お客が観に来てくれるという期待をほんのわずかでも繋ぐには、出演バンドはすべてまったく同じ音でなければいけない、という点だった。完全に誰もが僕に向かって多様性が好きだと言ってはくるのだが、多様性は客を呼べない足枷だとすぐに気づかされた: 彼らは積極的に多様性から逃げていくのだ。

 おそらくこの分離ぶりが、東京に暮らす外国人にとってはその音楽シーンに分け入り進んでいくのが非常に難しく思える理由の背景にあるのだろう。

(略)

「メルト・バナナやボリスみたいなバンドのことですが」と、青木が語る。「アメリカで高校時代に発見したこうしたバンドたちについて、僕にはまったく文脈が欠けてたんです。(略)彼らみたいなバンドのすべてが一緒に存在している多様なシーンみたいなものを思い描いていたわけですけど、実際に日本に来て、彼らのライヴを観に行き、そして彼らとおしゃべりしてみて理解したのは、彼らはここ日本にフィットしないバンドだからこそ日本を出たんだな、ということでしたね」。

 東京より小さな都市ではライヴ会場の数も少なくなるし、したがってバンドも観客も違うジャンルの音楽と接するのにもっと慣れている。それに対して首都シーンは、党派的なニッチの数々へと細分化していく傾向がある――時には似たような感じに思える音のバンドの間ですら細かに分かれている。

(略)

 音楽シーンにある細分化の性質(略)をうまく切り抜けるのにいくつかの方法がある。ひとつはリンガー (訳者註:不正競技者/替え馬の意味もあるように、正規メンバー外の人員を指すターム)を連れてくることだ。

 これは基本的にどういう意味かと言えば、シーンの外側に腕を伸ばし、もっと有名なバンドにお金を払って来てもらいヘッドラインを担当してもらうということだ。

(略)

 もうひとつやれることと言えば、とにかく長期戦でじっくりゲームに取り組むことだ。安上がりな会場をゲットし、定期的な間隔をおいて同じ場所でショウを予約し、少人数のDJ連を確保して自分に可能な限りべストなバンドをブッキングし続け、そうやってアイデンティティを築き上げ、そしてついにはパーティに来てくれる自分自身のオーディエンス群を作り出していくべく努力する。日本で開催されるイベントでよくおこなわれているのにヴォリューム1、ヴォリューム2、ヴォリューム3 といった具合にイベントに通し番号をつけるというのがあるが、これは数字が大きいほどそのイベントがおふざけではなくもっと真剣なものと映るから、という発想からきている。ほとんどのイベントは三回目以上に達することはまずない

(略)

 フライヤーはいまだに人気の高い手法で、僕が最初にイベントを組もうとし始めた時に教えられたラフな公式で覚えているのはフライヤーを1万枚刷れば約100人のお客に値する、というものだった。これは完全なでたらめだ: 原則として、フライヤーというのは人々めがけて戦車から豆鉄砲で豆をぶつけるようなものだ。

(略)

 いずれにせよ、日本のバンドとイベント組織者というのはいまだにかなりの時間と制作費を費やし、たまにかなり豪華なものにもなるフライヤーを作っている。フライヤーの魅力、そのイベントが「何号目」かを記すといった点は、バンドあるいはオーガナイザーを真剣にやっている連中として見せることに尽きるようだ

ミニ・アルバムというフォーマット

 北米と日本双方でバンドと仕事してきた経験を持つエンジニアであるセブ・ロバーツ

(略)

は日本のロック界のマスタリングにある「あまりにホット」になる傾向、たとえばスネアがティンパレス(ラテン打楽器)のように聞こえるほどコンプをかけたり趣味の良い聴き手には不必要なほどハイ・ハットがうるさ過ぎる、という点を特に指摘している。

 「比較的に言ってミックスも概して明るいですよね」とロバーツが付け足す。 「ものすごく高音重視なミックスというのは西側ではずっとダンス・ミュージックの分野で使われてきたもので、対してロックは常に中域が非常に前に出てくるジャンル。日本では、かなり甲高く響いてしまうレコードが多くなるわけです」。

 日本でのミックスが高音に重点を置いたものに傾きがちになる理由の一部には、ヴォーカルの声域、とくに女性シンガーの場合は高めになりがちな声域と楽器部との間に残る空間を埋める必要がエンジニアの側にあるから、という点もあるのかもしれない。

 いずれにせよ、いったんレコーディング/ミキシング/マスタリングの過程を通過すれば、ほとんどのバンドは通常7曲前後収録、尺は30分程度のCDという成果を手にすることになる。この手のミニ・アルバムが優位を占める理由には、おそらくこのフォーマットであればレコーディングにかかる費用とアイドル以外のCDシングル作品や低価格なEPに難色を示すレコード店側とのバランスをとりやすいから、というのも部分的に含まれていそうだ。その上、たぶんこちらの方がもっと重要な点だろうが、バンドとオーディエンスの双方がライヴ・シーンにおける標準である30分間のセットと、その簡潔な一定量内で音楽を届け、また消化するように鍛えられているから、というのもあるだろう。

(略)

 その理由がなんであれ、ミニ・アルバムというフォーマットの完成ぶり(略)こそ、日本のインディ音楽の経済学が20世紀の音楽シーンにもたらしたただひとつのもっとも素晴らしいアーティスティックな業績である、という自分の意見に誇張はない。 

英語で歌うメリット・デメリット

 日本語は「日本人っぽい」思考を表現するのに非常に適しているわけだが、逆に言えばそれは日本的なレールから外れた思考を表現するにはいささか不向きだということで、多くのアーティストがそうした意味論における制約から解放され自らの思考を好きなように浮遊させることのできる外国語のもたらす自由を満喫している。シーガル ・スクリーミング・キス・ハー・キス・ハーの日暮愛葉は、彼女にとっての英語の持つ柔軟性の魅力についてこう語ってくれた。

 「英語はもっと音楽的なんです」と彼女は言う。「英語の響きはパーカッション楽器、ピアノ、ギター・リフみたいに聞こえる。英語なら自分の弾くピアノやリフにもっと楽に乗せやすい。日本語で曲を書こうとすると、私にはほんと難しくて――ひとつの言葉から次の言葉へといった感じに細かく考えなくてはいけないし、この言葉はどうやったらうまく乗るだろうとか、あるいはこの言葉はどうもうまくいかないからここは変えなくちゃとか、これだと全然意味が通じなくなってしまうなぁ、等々。でも英語でなら、私は本当に自由に書けるんです」。

 英語を母国語とする人間だったら、果たしてこんな風に言語に対してルーズな姿勢をとるだろうか?という点にはおそらく議論の余地があるとはいえ、この本の中でも既に見てきたように、日本語をポップ/ロックのリズムやメロディにフィットさせるのが決して楽ではない言語にしている要素は確かに存在する。これに対し、英語はもっと会話調スタイルな発語を許容する傾向がある――日暮はそんな「喋っているような歌い方」のヴォーカリストとして彼女が特に魅力を感じる対象に、サーストン・ムーアとルー・リードをあげてくれた。

(略)

シー・トークス・サイレンスの山口美波が説明してくれたのは、彼女が聴いてきた音楽のほとんどは英語で歌われていたので自分で歌うことになった時にいちばん使うのが自然に思えた言語も英語だった、ということだった。これは40年前に内田裕也が主張したのと基本的には同じ見解から出た発言であり、これからも決して絶えることなく続く見方だろう。

(略)

 日本国外でのサクセスについては、英語で歌詞を書けば海外でデカく当てるチャンスが増すと信じているミュージシャンと業界人たちは一部にいる。この戦術はスウェーデン人作曲家やプロデューサーたちには有効で、彼らは新たなトレンドを吸収しそれをもっともキャッチーな形へと凝縮できる達者な能力でもって90年代後半以降のグローバルなポップ・シーンにアンバランスなくらい過剰な影響力を及ぼしてきた。

(略)

 英語で歌うことは、海外市場で独自なニッチを作り出せる一部のバンドにとってはコマーシャル面での恩恵をもたらすかもしれないが、大概その戦略はわざわざ苦労してやった甲斐に見合わないトラブルをもたらす。日本人バンドによる英語使用は必ずしも海外リスナーとはそりが合わないこともあるし、彼らリスナーにとって下手に使われた英語を良くて邪魔物、サイアクな場合は恥ずかしくて聴くに耐えないものになってしまう。多くの人間にとって、ジャパニーズ・ミュージックの魅力というのはまさにそこにある日本らしさにあるわけで、したがってファンたちはむしろバンド側がそれらを英語を通じて伝達することを望まない : 彼らにしてみれば、歌詞は東洋の神秘に包まれたままであるべきなのだ。基本的にあらゆるJ-ポップ曲の歌詞は完全に、救いようのないほどひどいものであることを思えば(略)

国家主義的だったブリットポップ

 オアシスやブラーといったバンドが頂点を極めていった最中にイギリスで大きくなった人間として、僕はとにかく、このブリットポップ時代の基盤を成していた気風が実はどれだけ国家主義的なものだったかという点に気づくのが遅かった。

(略)

 アメリカからやってきたグランジの侵略に対する返答としてのブリットポップというのは、当時僕たちの多くがアメリカと結びつけて考えていたあの一種均質化した大企業系の薄気味悪さを受けて登場した、反グローバル主義者による国としての――そしてそれ以上に、特に地元と地方のアイデンティティの更生という風に感じられたものだった。それが時には公然とした反米主義に傾くことがあったとしても、自分たちは負け犬の側なんだから無害だろうと思えた果敢なブリッツどもがスピットファイアに乗り込み、無慈悲な外敵から自分たちならではの暮らし方を死守しようとする図だ。まだ若過ぎて馬鹿過ぎたために僕はそのムーヴメントが内部に同じく資本主義の強欲な力を宿していたことに気づかなかったし、新たに衛生処理を施され、社会主義色を消し去った労働党の1997年総選挙での勝利とブリットポップの崩壊とが軌を一にしていたのは偶然ではなかった。

(略)

ブリットポップを特徴づけていたあの尊大さとシニシズムの混合物とは異なり、J-ポップが提示してみせたソフト・フォーカスで柔らかく捉えられた日本像は明らかに陳腐だった。

ライオット・ガール、フェミニズム、キュートとクリエイティヴィティの交点

 とことんフェミニンなキュートさとDIY原理主義とが、そのどちらに対してもこれといった妥協なしに組み合わさった様を見て取れる場のひとつが〈ザ・トウィー・ガールズ・クラブ〉 DJチームで、このチームはブティック&レコード店〈Violet And Claire〉を経営するシーンの女王、多屋澄礼が中心になっている。多屋は西洋からの影響が非常に強いインディ・ポップとローファイ・パンク、そしてファンジン文化に根ざしている人物で、ルーツという意味でこれほどアイドル・シーンからかけ離れたものもない。にも関わらず、トウィー・ガールズがキュートで可愛いものをフェティッシュ化する度合いというのはイギリスあるいはアメリカで80年代/90年代に育った人間の認知をはるかに越えた範囲にまで及んでいて、様々なクラブ・メンバーたちの販売する手作りの工芸品やアクセサリーにそれがもっとも強く表れている。

 僕のおこなったインタヴューの中で、多屋は彼女のやっている女性に焦点を絞ったインディ・カルチャーのプロモーションはその美意識と姿勢とに対する彼女自身の愛情が中心になっていると語ってくれた。「女の子たちはいい意味でとても大胆不敵だと思います――たまにちょっと危ないってこともあるくらいに」と彼女は言う。「彼女たちは最後までよく考えずに何か新しいことだとかプロジェクトを始めてしまう。この衝動性が、私の好きなタイプの興味深いガールズ・カルチャーを生み出してるんです」。

 そうは言いつつ、多屋は彼女のやっていることと彼女にとってのキーになる影響のいくつかを受け取ったライオット・ガールのムーヴメントとの間には違いがあるという点についてははっきりしている。

 「私の考えるライオット・ガールというのは、たぶん一般的な解釈とは少し違うんでしょうね」と多屋は言う。「人々はいつだって、ライオット・ガールに関わるものと言えば"フェミニスト"になると考えます。 私は自分たち(トウィー・ガールズ・クラブ)がフェミニストだとは思っていませんけど、でも私たちは90年代のライオット・ガール・ムーヴメント―――ビキニ・キルやスリーター・キニー等々――がもたらしたカルチャーは大好きなんです。あれがインディペンデントな女の子たち音楽の文化のスタート地点でしたから」。

(略)

『VAMP!』誌主幹の坪内アユミが主催する〈チックス・ライオット!〉というイベントは、同じようにライオット・ガールをルーツに据えつつよりラモーンズ/ジョーン・ジェット系のトラッシュなパンク感覚を備えた催しだが(略)

 90年代始めにアーティストのマネジメントと男性が優勢な音楽ジャーナリズムの世界とを通じて音楽シーンに入った坪内は真剣に受け取ってもらうために必死で闘わなければならなかったそうで、おそらくその奮闘の結果なのだろう、彼女は自身をフェミニストと呼ぶことに対する抵抗がはるかに少ない。それでもやはり、彼女はライオット・ガールの直接的なアプローチを日本の文脈において機能させるのは難しいだろうと考えている。

(略)

「私はワシントン州オリンピアで2000年に開催された、第一回〈レディフェスト〉 (略)を観に行ったんです(略)あのイベントは元祖ライオット・ガールの面々がオーガナイズしたもので、そこで私も日本でこういうことをやる必要があるなと悟りました。でもそれと同時に、あれをそっくりそのままコピーしたものはやりたくなかった。〈レディフェスト〉は明らかに政治的だったけれど、そのアプローチを日本に直に移し替えるのは楽じゃない: あれらの物事――音楽、政治、文化というのは、日本では同じ領域に共存してはいないので」。

(略)

90年代初期の日本のロック・シーンの中で前に進んでいこうとして葛藤した日暮愛葉の経験は坪内がジャーナリズム界で味わったそれとパラレルを描いている。

 「日本の女性というのは本当にフェミニズムの"過激さ"に気を使うんです(略)私もたまに自分をフェミニストだと思うことがあったり、あるいはそうじゃなかったりまちまちで。フェミニズム思考の一部は好きですが、でも考え方はただひとつっきりというのは私は嫌。それは危険だと思う。時には自分にフェミニズムが必要なこともあります――あんなにたくさんの男性を相手に自分が闘ってきたのもだからでした:立ち向かって闘わなくてはいけない偏見があったんです」。

 過激そうだという思い込みは、なんであれ明白なメッセージの拡散を阻むバリアを作り出す。その代わりに坪内のとったアプローチは、とにかく実際にやってみて実例を提示しリードしていくことで、女性たちが自身のカルチャを自分で所有するという発想を一般化していくことだった。

 坪内の認識は、重要な断層線は美学の領域よりもむしろ創造性とコントロールの間に存在する、というものだ。「90年代にとあるアイドル歌手のマネージャーをやっていたんです(略)彼女は決して音楽について喋りませんでした――ただ男性陣から音楽を渡されるだけ、と。彼女は歌を覚え、歌唱レッスンを受け、繰り返し何度も練習し、ステージに立ち、テレビに出演し、スタジオに入り、コマーシャルをやっていました。働き者でしたが、でも彼女はいつだって誰かからの指図に従っていたんですよね」。

 そんな状態の業界を去ってインディ/DIYな道を選んだわけだが、坪内は子供を産んだ際に再びアイドル文化と対峙することになった、

「以前、チックス・オン・スピードのメリッサ・ローガンに取材した際に『フェミニストってなんなんでしょう?』と質問したことがあったんですが、彼女の回答は『フェミニストというのはクリエイティヴって意味よ』でした。私の娘は今7歳ですが、近頃『アイドルになりたい』と言い出すようになって。 彼女のやりたいことを応援してあげたいのは山々だけど、私はこう言うんです、『やってもいいけど、自分の音楽は自分で作らなくちゃダメだよ』と。娘にピンクのギターとちっちゃなオルガンを買ってあげましたね。彼女には創造的になってほしいんです」。

 このピンクのギターと小さなオルガンは日本の音楽シーンでもっともうまくいった「女の子カルチャー」表現のメタファーとして位置するもので、そこではキュートで子供っぽく素人くさい何かとパンクっぽく原石なままのクリエイティヴィティとが組み合わさっている。それをフェミニズムと呼ぼうが呼ぶまいが、その可憐すぎる素朴さ✖未加工の創造力のコンビネーションを調和させることは、日本において女の子たち(略)と音楽シーンとが結んでいる関係の重要な部分を理解するキーになってくる。

(略)

この可愛らしさとクリエイティヴィティの交点というのは、インディというものの政治的な感覚が薄れてライフスタイルになっていく、資本主義的行動がインディ・シーンの中へと広がっていく作用でもあるのかもしれない。

(略)

日本で生まれ育った女の子たちはそもそもハイパーにキュートなイメージに取り囲まれながら育ってきたのだ。マルクス主義のタームをそこに当てはめさせてもらえば、彼女たちは生産手段のコントロール権を奪い取ったということだし、インディ音楽のゆるい経済においては、彼女たちの生産するカルチャーは今や多かれ少なかれ彼女ら自身の設定した条件のもとで流通している、ということになる。この意味で、彼女たちは外から押し付けられた可愛らしさや女の子っぽさといった概念の犠牲者ではないし、むしろ彼女たちはそれらをクリエイティヴなツールとして利用し、ポップ・カルチャーの広範なパレットから様々なものを引用しながら、それらを音楽シーンそのものと同じくらいに多種多様な目的へと適用していることになる。

オルタナティヴとアイドル産業

ここで代表例になるのがでんぱ組inc. で、彼女たちには「以前は引きこもりだった女の子たちが、困難を乗り越えて輝く未来に向かい夢を追い求めていくことになった」というグループ像を描き出す前歴ストーリーがある。ゆえに彼女たち自身も、ただひたすらに(略)男性の性的欲望を満たすためのフェティッシュのオブジェ的存在というわけではなくなる: 彼女らはアバターであり自己同一化できる対象であり、若者世代が潜るドラマの中核部を実演しているのだ: それは成人としての人生がもたらす侘しい現実と、子供時代に抱いていたきらきら輝く夢の数々との間に生じる葛藤劇だ。その子供時代というのはおそらく、買い手を幼児化させる消費文化によってえんえんと引き伸ばされる一方なのだろう。重度にコマーシャル化されたものかもしれないが、それが発しているメッセージはメインストリームな文化的生活を拒絶するファンたちの感性に対して明白なアピールを備えている。

 とはいえ、そうした反メインストリームな感覚にも関わらず、アイドル音楽にとってもサブカル型の消費にとっても商業主義は避けがたい部分を担っている。アイドル音楽の促進する夢の数々は消費文化と直接繋がっているし、その文化の唯一の目標というのは同一のベーシックな商品を際限なく再利用し焼き直し、それらを夢として改めてパッケージし直した上でファン/消費者側に再び売りつけることでしかない。とどのつまりは、 業界標準のマーケティング形態、可愛い子、コメディ、懐古から成るそれの様々なヴァリエーションへ何もかもが煮つめられてしまうということだ。これらの重要な要素に依存しているメジャー・レーベルやタレント事務所を我々は批判するかもしれないが、それらの三要素はまたサブカル型の音楽プロモーションでもその中核を成している。

(略)

レベルを下げて最大多数を求めていく中で、サブカルチャーはどうしたって、はっきり区別された個々ジャンルの間にある違いをスムーズに均一化してしまうものなのだ。

(略)

これら異なるシーンの間の流動性は、オルタナティヴな素性を持つ音楽家たちに職業作曲家あるいはプロデューサーとしてアイドル産業複合企業に入っていく足がかりという、経済面でのチャンスをもたらしもする。しかしインディとパンクがイベント主催者からアイドル音楽と同様の扱いを受け、ファンたちからもアイドル音楽と同じように消費されると、彼らの持つ意味合いのいくつかは失われてしまうし、キッチュな品物を並べたウィンドー・ディスプレイに加わった単なる要素に成り下がっていく。こんな風に、メインストリームなカルチャーとサブカルチャーというのは、実は一見したところ以上にもっと似通ったものだったりするのだ。メインストリーム文化は意味性の欠如した均一化された全体を作り出すために多様で異なる「声」を焼き払っていく:その一方で、サブカルチャーの美学はあまりにも多くの異なる、矛盾したメッセージを持つひとそろいのジャンルの数々を一緒くたにしてしまうがために、それらのメッセージの中身はカルチャーの雑音の中へと掻き消されていく。この意味では、サブカルチャーは真の意味でメインストリームを代替する存在ではないし、それはむしろひとつの手法(略)「既存のものとは違うんだ」という興奮の感覚をマーケティングするための手法ということになる。本質的に異なるジャンルやアイデアの数々をしばしば目がくらむほどエキサイティングなやり方でまとめていくという面において、サブカルチャーには計り知れない価値がある。だがそれはまたメインストリーム文化と同じく、上っ面だけに向かっていってしまうというあの内在型のトレンドのいくつかに悩まされてもいる。

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