Bowie's Books デヴィッド・ボウイの人生を変えた100冊

Awopbopaloobop Alopbamboom

ニック・コーン|1969年

 ジャーナリストのニック・コーンは、22歳になったばかりのときに(略)ポップミュージックに関する最初の本格的な評論(略)を短期間で執筆した。コーンが見ていた時代をいま振り返ると――1968年、ビートルズの『ホワイト・アルバム』、ローリング・ストーンズの『ベガーズ・バンケット』(略)

しかしコーンにとっては、もはや楽しみは消え失せてしまったかのように感じられていた。

 この本はそんな気持ちを映し出している。悲観的で、あきらめを見せている――愛するビートルズでさえ、後年の作品はLSDまみれの傲慢で尊大なものだと彼は感じている。もはや、エルヴィスの「偉大なリーゼントと口元を歪めた笑み」、フィル・スペクターの「美しいノイズ」、そしてもちろん、彼がこれまで見たなかで最もエキサイティングなライヴパフォーマー――コーンにとってもボウイにとってもそうだった――リトル・リチャードのような素晴らしIいものは現れない。悲しい話だ。(略)

コーンが忌み嫌う荘厳なプログレッシヴ・ロック――ピンク・フロイドのことは「信じられないほど退屈」だと思っていた――は決して主流にはならなかった。

(略)

ディスコがそのエクスタシーを引き延ばすと、そこでコーンは図らずも重要人物になった。(略)『サタデー・ナィト・フィーバー』は、コーン が 1976年に『ニューヨーク・マガジン』誌に書いたニューヨークのディスコシーンに関する記事、'Tribal Rites of the New Saturday Night' (新しい土曜の夜の部族儀式)がもとになっているのである。コーンはのちに、その記事はほとんどがでっち上げであり、主人公のヴィンセントは60年代に出会ったシェパーズ・ブッシュのモッズをモデルにしたと認めているが。

(略)

Awopbopaloobop は容赦のない鋭い意見に満ちている。たとえば、詩人のアレン・ギンズバーグは「ちょっとした冗談だが、悪くない冗談」、ドアーズは「セクシーだが器用ではない」というように。ボウイのお気に入りのバンド(略)プリティ・シングズについてのコメントも面白い。「やれやれ、彼らは醜かった。つまり、本当に醜かった――シンガーのフィル・メイは太った顔で、それを髪ですっかり隠し、不具のゴリラのようにステージ上でドタドタやっていた」。こうした具合でも、人は彼の推薦を得ようと必死になるのをやめなかった。ザ・フーの『トミー』を制作中だったピート・タウンゼンドは、コーンにそのアルバムのラフミックスを真面目くさっていると批判されると、土壇場で「ピンボールの魔術師」を書いた。コーンがピンボールに熱狂していたからだ。

 おそらく、ボウイは Awopbopaloobop を出てすぐに読んだだけでなく、マニュアルとして研究してもいただろう。ジギーのモデルと言われる人物のひとりに、自己破壊的なロックスターを描いたコーンの1967年の小説 I Am Still the Greatest Says Johnny Angelo(オレはいまだに最も偉大だとジョニー・アンジェロは言う)の主人公ジョニーがいる。60年代半ばのスター、P・J・プロビーをモデルにしたジョニーは、「同時にすべてのものになり、男性的で女性的で中性的、能動的で受動的、動物で野菜、そして悪魔的、救世主的、キッチュ、キャンプで、精神病で、殉教者ぶっていて、ただ単純に汚らしい」。

 コーンとボウイの歩んでいた道は1974年にぼんやりと交差したが、そこで得をしたのはコーンではなかった。コーンはベストセラーとなった Rock Dreams――歌詞や世間のイメージに着想を得た場面を背景にロックスターたちを描いた絵画集――で、ベルギーのアーティストのギィ・ペラートと一緒に仕事をしたところだった。それを大いに気に入ったボウイは(略)ミック・ジャガーを出し抜いて、ペラートに『ダイヤモンドの犬』のジャケットのデザインを依頼したのである。

荒地|T・S・エリオット|1922年

『ローリング・ストーン』誌でボウイにインタヴューしたバロウズは、『ハンキー・ドリー』の「8行詩」はエリオットの1925年の詩「空ろな人間たち」から影響を受けたものかと尋ねた。ボウイは、何も知らないと答えた。「エリオットを読んだことはない」。

 これは奇妙だ。ボウイは間違いなくエリオットに影響を受けていたのだから。ボウイがプロデュースしたルー・リードの1972年のアルバム『トランスフォーマー』の「グッドナイト・レイディズ」は、エリオットの1922年の革新的な詩『荒地』の第2部「チェス遊び」の終わりに出てくるフレーズである。(エリオット自身は『ハムレット』のオフィーリアのセリフを引用している)。

(略)

ボウイがバロウズに真実を語っていたとすると、彼はいつ『荒地』を読んだのだろうか?

(略)

 パスティーシュ、パロディ、引喩の氾濫である『荒地』は、キュビスムが視覚芸術で行ったことを詩で行った。その頑なな難解さは、見事だとも、不快だとも思われる。

(略)

 エリオットが『荒地』で用いたアプローチはブリコラージュだった。さまざまな断片――ふと耳にした話、ジャズのリズム、ポピュラーソング、ほかの作家の引用――を集め、つなぎ合わせることで、驚くほどモダンであると同時に、第一次世界大戦後のヨーロッパの精神的破綻を映し出した詩を創造した。エリオットにとって、現代の都市は汚らしく、やかましかった。真に現代的な詩はこれを映し出さなければならず、そのためにエリオットは、下劣なものと魅惑的なものの融合を試みた――これはまさにボウイが『ダイアモンドの犬』とそれに伴う壮大なステージで目指したことだ。

(略)

 エリオットの手法は、芸術的窃盗の新たなしきたりを定めた。(略)

「未熟な詩人は真似をし、成熟した詩人は盗む。よくない詩人は取ってきたものを傷つけ、よい詩人はそれをより優れたものに、あるいは少なくとも違ったものに変える」とエリオットは書いている。(ボウイは、自分がほかのアーティストたちからどれほどのものを取ってきているかについて、しばしば率直に語っていた。LCDサウンド システムのジェームズ・マーフィーがボウイの曲から盗んだと告白したときは、「泥棒から盗むことはできない」と言って安心させた)。

(略)

 トマス・スターンズ・エリオットは、ミシシッピ川岸のセントルイスで生まれ育ち、1914年にロンドンにやって来た。若いころの彼は、1970年代半ばのボウイのように、オカルトに手を出し、民主政に疑いを抱いていた。

いかさま師ノリス

クリストファー・イシャウッド|1935年

 1970年代ベルリン。いまだナチスの過去がつきまとう、荒涼とした、分断された街。いかがわしく恐ろしげなこの街(略)

 ボウイは29歳で、ほとんど破産していた。名声に溺れながら、その虚飾にうんざりしていた。ベルリンは彼にとって、避難所、創造力を充電できる場所になりそうだった。都合のいいことに、彼はこの街の隠された秘密を案内してくれる精神的ガイドを知っていた。クリストファー・イシャウッドである。

 イシャウッドの二つの半自伝的「ベルリン小説」――『いかさま師ノリス』と『さらばベルリン』――は、有名なケンダー&エブのブロードウェイミュージカル『キャバレー』など、さまざまな脚色版を通してボウイの目に触れていたのだろう。

(略)

1972年の映画版はジギー・スターダストのステージに強い影響を与えた。しかしボウイがイシャウッドを再発見したのは1970年代半ばのLA時代で、1976年3月のボウイのロサンゼルス公演を見たイシャウッドは、画家のディヴィッド・ホックニーと一緒に楽屋に挨拶しに行ったのだという。(略)

 やせ細ったコカイン中毒のボウイは、ヴァイマル期のベルリンにロマンティックな執着を抱くようになった。そこは、イシャウッドいわく、憎悪が突如どこからともなく噴き出る場所だった。この憎悪の源を察知したボウイは、オカルト狂いでニーチェ信奉者の大君主シン・ホワイト・デュークをアルバム『スティション・トゥ・スティション』で生み出し、自分とポップが空騒ぎから逃れるための避難経路を策定した。(略)

イシャウッドは、イギリスでの医学の勉強をやめて1928年にベルリンに移り、輝かしい退廃と慇懃な若い男娼で名高いその街で、長期のセックスツーリストになった。『いかさま師ノリス』は、ナチスによる支配が強まりはじめたその街での彼の冒険を、少しためらいがちに綴ったもの

オン・ザ・ロード

ジャック・ケルアック|1957年

 ボウイの異父兄のテリーはボウイにあらゆるヒップなものを紹介した――ジョン・コルトレーン、エリック・ドルフィー、トニー・ベネット、ジャマイカの「ブルービート」。(略)

12歳のボウイにこのケルアックのビートの代表作を渡したテリーは、そうして若いデヴィッドの世界観を変え、文化的に自分に合うものが何もないと感じていた地元の町ブロムリーへの欲求不満を強めさせた。読み終わったあと、ボウイは絵を描きはじめ、サックスを習っていいかと父親に訊いた。

『オン・ザ・ロード』は、自由、逃避、衝動、創造性(そしてドラッグ、セックス)の話だ。それはアメリカの可能性、少なくともアメリカの理想であり、ボウイが子どものころに想像した豊かで多様なアメリカだった。この魔法の国と、批評家たちが言うところの冷戦期アメリカ――閉鎖的で、偏執病的で、戦争を挑発する――との拮抗は、ボウイを惹きつけてやまなかった。それゆえ、ボウイのリストにはアメリカの作家が多く含まれている。特に多いのはロスト・ジェネレーションの小説家や詩人(F・スコット・フィッツジェラルド、ジョン・ドス・パソス、ウィリアム・フォークナー、ハート・クレインなど)だ。第一次世界大戦中に成人した彼らは、ジョン・ファンテやダシール・ハメットなどのより明白なビートの祖先と同じくらい、ビートの作品が好意的に受け入れられる土壌をつくるのに貢献した。

(略)

 ケルアックの手法の芯にあるのは、「最初の考えが最良の考え」という、禅に由来するビートの金言だ。修正や推敲は感情を殺してしまう、瞬間を殺してしまう。

(略)

 ボウイが生々しさを大事にしていたのは、ケルアックからの直接の影響だ。そしてそれは、なぜ彼はミュージシャンの技巧に懐疑的だったのか(技巧に優れたプレイヤーを適宜使ってはいたが)、なぜ歌詞を最後に一気に書くのが好きで、しばしばカットアップを用いたのか、なぜ曲をレコーディングするとき、できるかぎりヴォーカルのテイクを二つ以内に収めたのか、ということを説明している。

ザノーニ

エドワード・ブルワー = リットン|1842年

 エドワード・ブルワー=リットンは、ロックスターという言葉が生まれる前のロックスターだった。貴族的で、バイセクシュアルで、アヘン中毒で、超常現象に心を奪われたオリエンタリストの伊達男であり、バイロンの型破りな愛人のキャロライン・ラムとも首相のベンジャミン・ディズレーリとも関係を持っていると噂されていた。

(略)

彼はほとんどすべてのジャンルに挑戦し、チャールズ・ディケンズやウォルター・スコット卿よりも多くの読者を獲得したが、後年は幽霊物語やオカルトじみたSFを量産するのが最もしっくりきたようである。たとえば1871年の『来るべき種族』は、地下世界に住み、そこを使い果たしたら私たちの地上世界を侵略しようと考えている、「ヴリル = ヤ」という非常に知的なエイリアンの話である。ボウイは、『ハンキー・ドリー』をレコーディングするまでにこの本を読んでいた(略)ようで、「ユー・プリティ・シングス」の歌詞にそのタイトル(The Coming Race)を引用している。この曲は、うわベは陽気ながら、まもなく非常に知的なエイリアンの子どもたちに取って代わられると親たちに警告するものである。

(略)

 『ザノーニ』は薔薇十字団の話だ。このスピリチュアルな組織によれば、世界は古代文明から引き継がれた特別な知識を持つ錬金術師と賢人の秘密のネットワークによって動かされている。(略)

この考えは、コカイン漬けだった1970年代半ばのボウイのUFO、神秘的魔術、ナチズムのオカルト的ルーツへの執着につながった。

鯨の腹のなかで

ジョージ・オーウェル|1940年

[「鯨の腹のなかで」]は、両大戦間のパリでふしだらな生活を送るボミアンの異邦人たちを描いたヘンリー・ミラーの小説『北回帰線』を鋭く分析したものである。

 オーウェルはあるパラドックスに興味を抱いていた。発禁になったこのミラーの小説の卑猥で放蕩な内容は道徳的な読者を遠ざけるはずなのに、どういうわけかそうはなっていないということだ。これは、ミラーの手腕によって読者が登場人物たちの世界に引きずり込まれるからであり、その人物たちは実に馴染み深く、そこで起きていることは自分の身にも起こるのではないかと感じられるのである

(略)

 政治的な理由で、『一九八四年』の作者はミラーをほとんど読んでいなかった。1936年にパリで二人が少しだけ顔を合わせたとき――オーウェルはスペイン内戦の戦線に向かうところだった――ミラーはオーウェルに親善の証としてコーデュロイジャケットをあげたが、面と向かって、「君は自分のやることでファシズムを止められると思っている愚か者だ」と言った。それでもオーウェル は、『北回帰線』は誰もが読むべき本だと考えた。なぜなら、その見事な下劣さは、たとえ文明が崩壊しようと――オーウェルは来たる第二次世界大戦中にそうなると考えていた――大した問題ではないというミラーの信念を反映しているからだ。そのためにこの作品は20世紀後半の文学、特に(オーウェルは明らかに予見できていなかったとはいえ) 生々しいビートへ進んでいく方向性を示している。

(略)

オーウェルが『北回帰線』を気に入っていたのは、その市井の日常と身体的な行動――吐く、糞をする、ファックする――への容赦ない注目ゆえだ。その率直さが、作者と読者のあいだに強い共感の結びつきを生み出す。(略)

ミラーは自分のことをすべて知っていて、自分のために、自分だけのために書いてくれているのだという気がするのだ。

グレート・ギャツビー

「ボウイは意図されたものではなかった。彼はレゴのキットのようなものだ。僕は彼を好きにならないと確信している。彼はあまりにも空っぽで、節度がないから。決定的なデヴィッド・ボウイというのは存在しない」

『ピープル誌』(1976年)

イングランド紀行

J・B・プリーストリー|1934年

 最新式のバスでイングランドを巡った『夜の来訪者』の作者は、分断された国を見る。南部にはサウサンプトンの港のように栄えている地点があり、そこから旅をはじめたプリーストリーはここは悪くない町だと感じる。ブリストルも同様で、タバコ工場を訪れた彼はその工場の人間味の感じられる運営をほめそやす。そこでは人々が効率的に働き、誰も辞めたいとは思っていない。

 しかし、ブラッドフォードで育ったプリーストリーがよく知る北部の産業地帯は、大恐慌で荒れ果てていた。無感情と幻滅の支配だ。かつては政府が暮らしをよくしてくれると考えていたが、いまや多くの人が何も信じなくなっている。これはプリーストリーをぞっとさせる。というのも、彼はドイツで何が起ころうとしているかがわかっていて、政治への無関心は「独裁制が栄え、自由が死ぬ土壌」だと理解していたからだ。

(略)

プリーストリーによれば、スウィンドンのハイストリートは残念な状況で、低俗な店や安物のバザーばかりだという。ニューカッスル・アポン・タインで彼に何より衝撃を与えるのは、沈黙だ。船をつくる男たちのやかましい騒ぎは消えてしまった。

ミス・ブロウディの青春

ミュリエル・スパーク|1961年

 表面上、このミュリエル・スパークの傑作は、インスピレーションを与えてくれる教師についての短く面白い小説だ。(略)

ボウイの場合は、ギタリストのピーター・フランプトンの父親で、ブロムリー・テクニカル・ハイスクールで美術を教えていた、オーウェン・フランプトンがそうだった。

(略)

ミス・ブロウディと同じように、フランプトンは、教育とは「詰め込む」というよりも、すでにあるものを「引き出す」ことだと考えていた。ピーター・フランプトンは『インディペンデント』紙にこう語っている。「父は、生徒たちのなかにあるアートへの情熱を見つけるのがとてもうまかった」。ミス・ブロウディと同じように、彼は型にはまらない方法で「引き出し」た。「美術棟のドアを開けっぱなしにしていたから、ギターを持ち込んでバディ・ホリーの曲を演奏したりできた」という。

A People's Tragedy

オーランドー・ファイジズ|1996年

 ボウイはソ連を直に体験している。(略)1973年4月、ジギー・スターダスト・ツアーの日本レグの帰りだ。幼馴染でバッキングシンガーのジェフ・マコーマックとともに、港湾都市のナホトカからモスクワまでシベリア鉄道に乗り、明るい赤色の髪と厚底ブーツで滑稽なほどに異彩を放った。

(略)

一般の乗客は混み合ったコンパートメントの木製の長椅子の上で寝ていた。ボウイー行は、きれいな寝具のある「ソフトクラス」に乗ったが、そこも洗面設備は不十分だった。着物姿のボウィは、世話役のがっしりしたロシア人女性二人、ドニャとネリャに付き添われて列車内を歩きまわった。

 自分の(比較的)贅沢な状況と、列車が通過するシベリアの村々の貧困とのギャップは、ボウィの頭にこびりついた。「彼らがどうやって冬を越しているのかわからない」と、ボウイは繰り返し言っていたという。のちに、ファイジズの本を読んだ彼は、1921~22年の飢饉のひどかった時期、多くのロシアの農民は共食いをしなければ冬を越せなかったと知った。子どもたちになんとか食べ物を与えたい母親たちは、死んだ人の手足を切り落として鍋に入れた。人々は自分の親族を、さらには先に逝くことの多い(そして肉が甘くていちばん美味しい)小さな子どもまでをも食べるようになった。

(略)

ボウイは8日にわたる5750マイルの旅を楽しんだ。「実際にこの目で見ることがなかったら、あれほど広大な自然のままの風景を想像することはできなかっただろう」と、彼は『ミラベル』誌に書いている。その後、一行はモスクワに3日間滞在し、クレムリンを訪れ、グム百貨店で買い物をしたが、土産物として売られていたのは石鹸と下着だけで、ボウイはがっかりした。グムのカフェテリアでランチも頼んだが、ボウイとしてはそのミートボールは食べられたものではなかったという。

 1976年4月の二度目の旅――ィギー・ポップを含め、より大人数で連れ立った――は、さらに問題が多かった。ワルシャワ - モスクワ鉄道に乗った一行は、国境でKGBの警備員に列車の外に連れ出された。ボウイとポップは裸にして調べられたが、KGBに疑念を抱かせたのは、ボウイが携帯書庫に入れていたゲッベルスやアルベルト・シュペーアに関する本だった。ボウイは、これは計画中の映画のための資料だと主張した。

終わりなき闇

ルーパート・トムソン|1996年

 一度読んだら忘れられないルーパート・トムソンの4作目の小説は、夢や統合失調症の妄想のなかに生きる感覚を説得力をもって伝えている。

(略)

マーティン・ブロムという人物が、スーパーマーケットの駐車場で頭を撃たれ、視力を失う。病院で目を覚ましたマーティンは、これから自分は一生盲目なのだと知る。そして、実際に見えているのではないかと思うほどのリアルな幻覚に襲われやすくなるだろうと告げられる。(略)

彼の状態の真実とは何だろうか?ことによると、マーティンは死んでいるのかもしれない。筋の通ること、論理的なこと、確かなことはほとんどない。

(略)

 1990年代半ば、『アウトサイド』のころ、ボウイは伝統的な物語の形式にうんざりしていると話していた。自分の作品に一貫して流れているのは、「分裂しているという感覚こそが、少なくとも僕にとってはいちばんしっくりくるということ」だと『ミュージシャン』誌に言っている。「整然とした結末やはじまりというのは絶対的すぎるように思える」。ボウイも知っていただろうが、フランスの批評家ロラン・バルトは、1970年の著書『S/Z』のなかで(略)

 読み得るテクストは、明白でシンプルなプロットを持ち、現実的な登場人物が住む現実的な環境で話が展開する。これは飲み込みやすいものだが、バルトにとっては、欺瞞的なものでもある。読みながら本の現実を構築する読者の役割を認めていないからだ。一方、『終わりなき闇』のような書き得る本はこれを認めている。これは読者にジグソーパズルの箱を渡してこう言う。「さあ、どうぞ。あなたがやるんです。そして私に教えてください。舞台はどこか、ジャンルは何か、なぜ途中で語り手が変わるのか、随所に見つかるボウイとの関連(略)はたしかに存在しているのか、それとも想像力の働かせすぎなのか、ということを」。

 トムソンは1997年、ローマに住んでいたときに、『インタヴュー』誌から電話をもらった。有名人がそれほど有名ではない人にインタヴューするという新連載に参加しないかということだった。自分がどちらの側かすぐにわかった彼は、インタヴュアーは誰なのかと訊いた。「デヴィッド・ボウイ」がその答えだった。ボウイは『終わりなき闇』を非常に気に入っていて、著者に会いたいと思ったのだ。「編集部からまた電話すると言われたから、それを待った」と、トムソンは『ガーディアン』紙に書いたユーモラスな文章のなかで振り返っている。「しかし数日が過ぎ、数週間が過ぎ、電話は鳴らなかった。インタヴューは行われなかった。私はボウイに会うことはおろか、話すこともなかった」。

Nowhere to Run

ジェリー・ハーシー|1984年

 ロックスターのお気に入りといったところのある――ミック・ジャガーは二度死んだという――ジェリー・ハーシーの Nowhere to Run: The Story of Soul Music は、その2年後に発売されるピーター・グラルニックの『スウィート・ソウル・ミュージック』と同じような分野を取り上げている。(略)

グラルニックは格式張ったところがあり、モータウンを軽蔑している。一方でハーシーは、ベリー・ゴーディのデトロイトのヒット工場がブルーズ、ソウル、ゴスペルを洗練させ、黒人と白人の双方に愛されるマスマーケット向けの商品を生み出したことに魅力を感じている。

 ハーシーは女性として初めて『ローリング・ストーン』誌のコントリビューティングエディターになったが、そこでのあだ名は「くるみ割り」だった。厄介なインタヴュー相手も苦にしなかったからである。彼女のコミュニケーション力は、多くの歌手やミュージシャンからたくさんの印象的な回想を引き出した。

(略)

 ステージで縞模様の棺から出てくるホーキンズは、ベン・E・キングとドリフターズのメンバーが蓋を完全に閉めてしまったせいで息ができなかった夜のことを思い出す。ジェームズ・ブラウンは、刑務所で櫛をいじくったり洗濯だらいでベースをつくったりして多くの技を覚えたと振り返る。シシー・ヒューストンは、ハーシーに娘が歌うところを見せた――10代のホイットニーはほっそりとして可愛らしく、まるで津波をも食い止められるような強い肺を持っていたと、ハーシーは伝えている。

ブルックリン最終出口

ヒューバート・セルビー・ジュニア |1964年

 ザ・スミスはアルバムのタイトル(『ザ・クイーン・イズ・デッド』)を『ブルックリン最終出口』の第2部のタイトルからとった。都会の脅威と不幸を映し出した6編の痛烈な物語からなるこの小説は、1950年代後半のブルックリンの貧民街を舞台に、そこにの街を出没する薬物中毒者やごろつき、社会不適応者たちを描いている。たとえば、ゲイであることを隠している機械工のハリーや、セックスワーカーのトゥラララなどで、彼女がひどい輪姦に遭う場面はこの小説で最も物議を醸すところだ。

(略)

 ボウイのこの小説との関わりは、もしかしたら本人が気づいていないうちから育まれていたのかもしれない。というのも、彼が影響を受け、のちに友人、共同制作者となったルー・リードは、これを聖典とみなしていたからだ。リードはこの小説の、表音的な、句読点の打ち方が粗っぽい文章と、疑問符を使うのではなく微妙なトーンの変化で会話を表すやり方が大好きだった。

「つまり、セルビーがいなけりゃ、誰もいない――そんなふうに思う」と、リードは2013年に『テレグラフ』紙のミック・ブラウンに言っている。「彼は2点間の直線だったんだから。回り道なんかない。多音節のものなんかない――とにかく、神だ……それがロックンロールじゃなかったら、何なんだ?」。

 セルビーの物語の音楽版と言えるリードの「僕は待ち人」は、ボウイを驚愕させた。彼がそれを初めて聴いたのは1966年2月で、マネージャーのケネス・ピットが『ヴェルヴェット・アンダーグラウンド・アンド・ニコ』の発売前のアセテート盤をニューヨークから持ち帰ってきたのだった。ボウィはすぐに当時のバンド(ザ・バズ)にこれを覚えるように言い、1週間たらずのうちにステージで演奏するようになった。「愉快なことに、僕はヴェルヴェッツの曲を世界中の誰よりも早くカバーしただけじゃない」と、ボウィは2003年に『ヴァニティ・フェア』誌に語っている。「アルバムが出る前にやったんだ。それはモッズの真髄だね」。

Tadanori Yokoo

横尾忠則|1997年

 ボウイは1972年秋にジギー・スターダストをアメリカへ連れていったが、ニューヨーク近代美術館で開催されていた横尾忠則の個展は一足違いで見逃した。とはいえ、情報通だった彼は、ピーター・ブレイクや1960年代後半のサイケデリックなポスターアートを思わせる横尾の挑発的なコラージュについてあれこれ聞いていただろうし、この日本のグラフィックデザイナーが1967年に初めてニューヨークを訪れたときに、アンディ・ウォーホルやジャスパー・ジョーンズ、トム・ウェッセルマンといったポップアートの第一人者たちから温かく迎えられたことも知っていただろう。

 ボウイの日本文化への興味――ダンスのクラスで武満徹作曲の日本の現代音楽を使っていたマイムの師、リンゼイ・ケンプによってかき立てられた――は、日本ツアーを行った1973年春には親日家と言えるまでに高まっていた。異世界のメタファーとしての日本の大きな可能性に、はたと気づいたようだった。「イングランド以外で、僕が住める唯一の場所だと思う」と、その年に彼は『メロディ・メイカー』誌に語っている。

(略)

 ボウィは日本の美意識に夢中になった。自身のステージにも歌舞伎の要素を取り入れた。日本滞在中には、最も名高い女形のひとりである坂東玉三郎から歌舞伎の化粧法を学んだ。山本寛斎の服を着て、鋤田正義に撮影された。

(略)

横尾の親友である三島由紀夫の小説にも惚れ込んだ。

 三島にとって、横尾忠則のアートは日本人が内に閉じ込め続けている耐えがたいものすべてを表象していた。それはつまり、伝統的な日本のしきたり(略)とポップアートの消費主義のあいだの緊張関係ということだ。性、死、暴力も大きな関心事である。

スウィート・ソウル・ミュージック

ピーター・グラルニック|1986年

 10代のころからソウルミュージックの大ファンだったボウイは、『ダイアモンドの犬』で初めて自身の音楽にソウルの要素を取り入れた。このアルバムに伴う米国ツアーは、次第に黒っぽくなっていき、やがてルーサー・ヴァンドロスやボウイの当時のガールフレンドのエイヴァ・チェリーなどの黒人シンガーを加えた完全なソウルレヴューに変わった。ボウイのバンドのギタリストを長年務めたカルロス・アロマーは、ボウイのアフリカンアメリカン音楽に関する膨大な知識に驚いたという。ボウイはジェームズ・ブラウンの『ライヴ・アット・ジ・アポロ』がお気に入りだったから(略)[アロマー]にアポロへ連れていってもらって興奮した。

(略)

 『ヤング・アメリカンズ』はボウイを米国でスターにした。当時のインタヴューで彼はこのアルバムについて複雑な感情を示していて、「プラスティック・ソウル」だと自己嫌悪的に言う一方で、過去の作品にはなかった正直な感情があるとも言っている。『メロディ・メイカー』誌に語っているところによれば、『ヤング・アメリカンズ』以前は「サイエンスフィクションの様式」を用いていた。「概念や観念、理論を示そうとしていたから」だ。しかし『ヤング・アメリカンズ』は違う―― 「感情的な衝動だけ」なのだ。

 この感情的な衝動の源泉は、音楽史家のピーター・グラルニックが『スウィート・ソウル・ミュージック――リズム・アンド・ブルースと南部の自由への夢』で追い求めたものだ。深い調査にもとづいたこの魅惑的な本は、ソウルを生んだ時代と環境を描き出したもので、グラルニックはその音楽をこう厳密に定義している。すなわちそれは、ゴスペルを世俗的にしたもので、主にメンフィス、メイコン、マッスル・ショールズの「サザン・ソウル・トライアングル」で制作され、レイ・チャールズの成功を受けて1954年以降人気になった。その後、公民権運動とともに、1960年代前半にピークに達した。そして1970年代になると、スタックスなどのレーベルの原動力になっていた無邪気で混沌とした熱狂が薄らぎ、ひとつの創造的な勢力として消費されるようになった。

Writers at Work

マルカム・カウリー (編)|1958年

 インタヴューを受けるとき、ボウイはたいてい相手に歓迎された。チャーミングで、話がしっかりしていて、インタヴュアーを手なずける術を知っていたからだろう。数十年のあいだに磨き上げたお気に入りのトリックは、ライターには45分と言っておいて、1時間のインタヴューを行うことだった。「時間切れ」になると、ボウイはライターを退出させるためにやって来た広報担当者のほうを見て、こう言う。「あのさあ、いますごくいい感じなんだ。もう少し続けをてもいいかな……?」。そうしてライターは誇らしげに顔を赤らめるのだ。

 心臓発作に襲われたあと、ボウイは沈黙し、トニー・ヴィスコンティなどの共同制作者に代わりに話してもらうようになった。(略)

The Sound of the City

チャーリー・ジレット|1970年

 一部のアーティストは、批評家のやることに無関心なふりをする。だから、ボウイが音楽ジャーナリストの意見に進んで興味を示していたのは面白い。ロックについて書かれたもののなかで彼が好きだったのは、主に学問的なもの、さらに言えばクソ真面目なものだった。彼のリストには(略)馬鹿げたゴシップ本(略)は含まれていない。

 その代わりに彼がリストに入れているのは、自分が最も多くを学んだ本 ――10代のころに自分が夢中になったものについて高尚に説明してくれた本――であるようだ。チャーリー・ジレットはランカシャー生まれの作家・DJで、ニック・コーンと並んで誰よりも早くロックを真剣にとらえ、1965年にはイングランドを離れてニューヨークのコロンビア大学に行き、ロックをテーマに修士研究を行った。そこから発展したのが、1970年に出版された最初の著書 The Sound of the City: The Rise of Rock'n' Roll(街の音――ロックンロールの興隆)である。コーンの Awopbopaloobop Alopbamboom と同じように、ボウイはこれをマニュアルとして読んだのかもしれない。そうだとしたら、それは優れた判断だった。ジレットはのちにマネージャー、スカウトとしても成功し、イアン・デューリーやエルヴィス・コステロ、ダイアー・ストレイツなどの未来のスターを発掘、宣伝しているから、彼の意見は信頼できたわけだ。

 避けられないこととして、この本の人名録のような細部の多くは、いまとなっては骨董品のようで、意味を持たない。しかし、より視野の広い洞察は新鮮なままだ。特に面白いのは、ロックンロールが1960年代後半――コーンが興味を失いはじめたころ――に「シニカル」なポップ (モンキーズ)と「シリアス」なロック(ザ・バンド)に分かれたという話である。ボウイは自分が柵のどちら側にいたいのかしばらく悩んでいたことだろう。まったく異なる柵を思い描いていたかのようなときもあった。「ラフィング・ノーム」を書いた人物が『ロウ』をつくったというのはなかなか理解しがたい。しかもそのどちらも素晴らしいということは。

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