資本主義後の世界のために D・グレーバー+矢部史郎

資本主義後の世界のために (新しいアナーキズムの視座)

資本主義後の世界のために (新しいアナーキズムの視座)

 

D・グレーバー+矢部史郎/対話  

資本主義づくりをやめる

矢部 グレーバーさんは、アナーキズムとマルクス主義を対立的に捉えるのではなく、その間で思考されています。だからアナーキストからはマルクス主義者ではないか、マルクス主義者からはアナーキストではないかと見なされたりもする。そのポジションが自分とよく似ているので、とても親近感をもちました。
(略)
アントニオ・ネグリを評価している一方で、彼が新しい革命主体に「マルチチュード」という呼び名を与えることにグレーバーさんは反対している。そこに特に感銘を受けました。
(略)
グレーバー 私はマルチチュードという概念の批判の延長として、「構成的権力」の代わりに、「脱構成的趨勢」という概念を考えようとしています。(略)
「構成的権力」の概念の場合、現実にそれを経験する人びとが、ある種の国民的な統合や形式に向かわざるを得ないといった宿命的なニュアンスを持っているのに対し、「脱構成的趨勢」は、そうではない遠心力のようなものの可能性、つまりある種の形成性、集合性を持ちながらも、国民的な統合といったものとは異なる方向があるのではないかといった捉え方です。ネグリの考えの中のパラドキシカルな側面は、近代的な国民国家を形成する制度を肯定する人びとにとって、その形成のきっかけに暴力がなくてはならないと認識している点です。つまり、合法的な制度をつくるためには暴力が必要とされているという逆説を、ネグリの議論は孕んでいる。
 それに対して、アナーキストのスタンスはそういったパラドキシカルな思考はしない。そのパラドクス自体、国民国家が宿命的に存在しているという思考ですから。そういった議論を含む「構成的権力」に感じる問題点を考えたとき、アナーキストは、創造的な力の噴出というものをどのようにしたら国家的な制度に取り込まれないで誇示することができるかというところに向かわざるを得ない、それが「脱構成的趨勢」という概念のポイントだと思います。宿命的に国家経済に取り込まれることを想定する「構成的権力」との差異として考えると、「脱構成的趨勢」の特徴は、何らかのきっかけがあると、常に創造的な力が噴出するという点にあります。例えばニューオリンズの台風被害の際や、地震などの自然災害が起こったとき、民衆の創造的な力が噴出する状況に力点を置いて考える。災害などによって、行政機構が崩壊した隙間から共同体が形成されたり、さまざまな新しい生活が生まれる、そういったものが噴出する状況について考えようということなんです。
矢部 生きた労働ですね。
グレーバー マルチチュード概念は、コミュニズムがすぐそこに迫っている、もしくは現存している共産主義という考えの下に考察されているところがあります。(略)
マルチチュード概念には「前衛主義」が控えています。宿命的に国家というフレームワークを設定していて、それに対し、前衛という存在も想定されている。そこに問題を感じています。
矢部 前衛主義を擁護するわけではないですが、僕はそうではない面もあったのではないかと考えています。それは、ある種のレーニン主義的な、「国家権力の奪取」を目指す革命理論から脱出するための理論ではあったのではないか。国家というものはどうせ存在するものだから、それはそれであればいいんだ、と。国家があろうがなかろうが、共産主義はあるし、共産主義運動もある。国家権力を奪取できようができまいが、そのことは自分たちの運動とはあまり関係がない。それは、よい意味でのシニシズムではないかと思う。そこに既に存在する運動を共産主義として認め、運動に力点を置いて拡大するということが必要だと思うんです。

最終的に左翼と右翼を区別するのは

グレーバー 最終的に左翼と右翼を区別するのは、政治的な存在論の問題として何が「現実」かということに対する考え方なのではないでしょうか。
 右翼は暴力の政治的存在論を強調するでしょう。国際関係の政治学の中で、右翼の思想家は、国民国家はその利益を追求するためには何でもするであろうという論理を強調する。しかし国民国家自身が物質的な現実というよりは幻想的な現実なのです。むしろ事実はこうではないでしょうか。
(略)
フランスというものが存在しないにもかかわらず、フランスはあなたを殺すことができる。軍事機構があって、それはフランスを代表するということになってしまっている。つまり、フランス自身は現実ではなくても、軍隊は現実だということです。そのときの理屈というものは、あなたを殺すことができるから、それが現実だ、ということです。それが右派の政治的存在論の本質だと考えています。
 それに対して左翼は、歴史的に常に想像力と創造力を持った政治的な存在論について思考してきたのではないでしょうか。マルクスも、人間をどう解き放つかというときに、人間はまず事物を創造するから人間である、と言っています。だから最終的な現実というものは生産力である、と。われわれの間で広く読まれている『権力を取らずに世界を変える』という本を書いたジョン・ホロウェイはいま『資本主義をつくるのをやめる』という題の本を書いています。そのような思考法こそが左翼の政治思考の本質だったのではないかと。つまり世界は現実的にはみんなが集合的につくっているものなのに、誰も幸せになれない。どういう世界がいいかと想像したときに、それはこんな世界ではないということでしょう。しかし、瞬間的な傾向として多くの人が右翼の政治的なオントロジーに向かう傾向があるのは事実です。だから、正にその瞬間に矢部さんが言った愛というものを強調することが重要になるのではないかと思います。あらゆる行為の土台には愛がある。そもそも暴力でさえ愛がないと形成しえないものであると(笑)。常に愛の行為というものが先行するということです。
(略)
アメリカでは現実の運動が収斂していくプロセスで、多くの学者は、現実には単なるリベラルでしかないにしても、意識だけはラディカルとして残り続けようとしました。さらに問題なのは、フランス現代思想の導入によって、彼らの存在が、正に現実に存在するラディカルのように見えてしまったことです。国家と資本主義に対抗するのではなくても、さまざまな個人的存在についてのマイナー性に訴えること、そういった個人の闘争がよりラディカルである、国家と資本主義に対抗するよりもラディカルである、というような雰囲気になってしまった。
(略)
しかし労働者階級が嫌っているのは、本当のラディカリズムではなくて、ニセのラディカリズムが新自由主義に対抗しようとする仕草であって、本当のラディカリズムを嫌うわけがないと思います。

自律空間

一つ考えなくてはいけないのは、世界中にはさまざまなタイプの自律空間が存在しているということです。(略)
 政治的な問題意識としてまだ誰も提起していないのは、それらの違ったタイプの自律空間というものが、どうしたら自律しながらお互いが協力し合えるような構造に持っていけるかということです。(略)
研究者や知識人にできるのは、いままで語られたことがないような自律空間について研究し、考え、それを世界に知らせることではないでしょうか。現実に存在する権力がどうしようもないということを教える必要はないのです。そんなことはみんな知っている、知りすぎていると思いますね(笑)。人びとを説得するのが難しいのは、本当のオルタナティヴが可能だということです。そしてそこに向かうために、状況を今よりも酷くする必要はないということが重要です。
(略)
私は、人間の第一次的、原初的な生産というのは人間関係の生産であり、人びと、民衆の生産であり、関係の生産であると考えています。それが最も重要なことです。
矢部 それこそが「低理論」だと思いますね。新自由主義は、市場原理主義という捉え方でも語られますが、実は彼らは市場のおもしろさを本当は知らない。つまり市場というものが持っている「表現」という側面を知らないんです。
グレーバー 商品や生産物の生産は、人びとの生産に対する二次的なものでしかない。しかし資本主義は、それに転倒した像を与える。マルクスの重要な貢献というのは、物の生産が大事であるかのような見せかけの機構を指摘したことです。多くのマルクス主義者はその重要性を誤解しているのではないでしょうか。われわれがそこで強調しなくてはいけないのは、右翼が、ニセのマルクス主義として現れてくるということです。むしろ右翼の理論家が、物の生産が重要であるという論点を導入し、資本主義は不可避的だという主張としてそれを表した。しかしそれは単純化されたタイプのマルクス主義の話です(笑)。

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