基本データ | |
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正式名称 | オスマン帝国 دولتْ علیّه عثمانیّه Devlet-i ʿAliyye-i ʿOs̠māniyye |
国歌 | オスマン帝国国歌 |
軍歌 | ジェッディン・デデン |
公用語 | オスマン語 |
首都 | ソユト ブルサ エディルネ(元ハドリアノポリス) コスタンティニーエ(現イスタンブル) |
面積 | 5,500,000km²(1680年) |
人口 | 35,350,000人(1856年) |
通貨 | アクチュ クルシュ リラ |
オスマン帝国とは、1299年から1922年までの約600年間、アナトリア、バルカン両半島を中心として栄えた、君主制イスラーム国家である。
国家元首たる君主は特に帝国内ではパーディシャー(皇帝)、スルタン(イスラーム世界の君主号)と称された。スルタンは帝国内の皇族全般をも指したため、君主は専らパーディシャーと呼ばれた。
今日の日本においては、オスマンの君主は単に皇帝あるいはスルタンと記されることが多い。
1299年に建国したとされる。14世紀前半ごろには、バルカン、アナトリアの両半島に勢力を築き、以後急速に国土を拡大していく。然し、15世紀初頭には、ティムールの前に膝を屈し停滞した。
暫くのちに国力を回復すると、1453年に千年帝都コンスタンティノープルを落とす。16世紀中ごろには最盛期を迎え、アジア、アフリカ、ヨーロッパの三大陸に及ぶ大帝国として、オスマンの衝撃を全キリスト教世界に与えた。17世紀には領土の膨張は止まるが、国内ではオスマン文化が栄えた。辺境領土を失うが、18世紀中を通じ、その存在は欧州諸国の脅威であり続けた。
ところが、フランス革命の影響を受け、バルカン半島ではナショナリズムが高揚し始める。この頃には欧州との国力も逆転しており以後、欧州列強の介入を受け続け、広大な国土は民族の独立や列強への割譲で、瀕死の病人と称されるほど急速に縮小していった。
こうした状況で逆転を狙った第一次世界大戦では、中央同盟側に立って敗北。皇帝はこの講和条約としてセーブル条約を結ぶが、領土の大半が他国の領土となるか或いは影響下に置かれるかというものであった。これに反発した層がアンカラでトルコ大国民議会を結成し、皇帝の退位を決定。皇帝はマルタに逃れ、600年以上栄えたオスマン朝はここに滅んだ。
「オスマントルコ」という呼ばれ方をされることも多いが、最近はこの呼び方が避けられて「オスマン朝」や「オスマン帝国」と呼ばれることが多い。
これは、この国家は決して「トルコ民族の国家」といえるような性質の国家ではなかったためである。
確かにこの王朝はトルコ系民族を出自としており、公用語もテュルク系の言語(オスマン・トルコ語)であった。しかし、実際には支配者層も被支配者層も多様な民族・宗教を出自とする人々により構成されており、トルコ人が帝国内の他の民族と比べて特に優遇されていたわけでもなければ、ましてや当時のトルコ人自身が「オスマン帝国は俺たちトルコ人の国家だ!」と考えていたわけでもなかった。
その一方で対外的にはトルコと称され続けたが、オスマン帝国がトルコと自称し始めるのは民族意識の強まる近代からである。
オスマン帝国のスルタン(権力者、皇帝)は強大なる専制君主であった。しかし統治は厳格なイスラーム法に基づくものであり、また膨大な土地を州・県・郡にわけるなど、必ずしも一元的な支配とはいえなかった。
他方、ユダヤ教徒やキリスト教徒に対しては、基本的に「啓典の民」として信仰の自由を与えていた。人頭税(ジズヤ)や地租(ハラージュ)などを課すものの、ユダヤ・キリスト教徒の共同体へは法的自治を認め、その上彼らとの共存をはかるなどして、程よく統治をした。
軍事的には、スルタンから頂いた土地からある程度自由に徴税できた(ティマール制)騎士軍団、異教から改宗した親衛隊イェニチェリらが活躍した。特に後者の歩兵部隊は常備軍として、征服戦争において腕を振った。
こうした諸制度は帝国内外において巧みに機能しあい、オスマン帝国は欧州も羨む先進国として繁栄する。特にスレイマン1世治世期の全盛期には、文字通り「無敵の超大国」を体現した。その領土は中欧、北アフリカ、中東、西アジア、と三大陸にも跨り、当時のヨーロッパに対し「オスマンの脅威」なるトラウマを抱かせたものだった。
特に「東のローマ」こと東ローマ帝国の帝都「コンスタンティノープル」を陥落させ、それをキリスト教の都からイスラーム風の都としたことは大きく、これが海を挟み隣接するイタリア半島(特にローマ教皇領)に宗教的あるいは地政学的な恐怖と絶望を与えた。
総じて強大すぎたこの国の存在は、世界史の流れに大きく影響した。欧州はインドなどの東方の富を得る際、オスマン帝国が幅をきかせた陸路を避け、わざわざ遠回りである海上ルート(南アフリカ・喜望峰など)を用いたのである。オスマン帝国が大航海時代を呼んだといっても過言ではない。
初代君主のオスマン・ベイ(オスマン1世)が建国するまで、トルコ民族はどういった境遇だったのか。
モンゴル高原より北方の遊牧民、我々日本と同じ黄色人種(モンゴロイド)であるテュルク(トルコ)民族は、当時の中国に「丁零(ていれい)」と呼ばれていた。彼ら丁零は4~6世紀には突厥(とっけつ)と呼称され、中央ユーラシアに跨る大国を建てたものの、しだいに東西に分裂し、8世紀には滅びてしまった。
その際にテュルク民族は多方面へ散らばっていったのだが、中には西方の白色人種(コーカソイド)と混血していき、徐々に西へ、西へと草原を駆けた者もいた。
西方へと進む彼らはイスラム教を受け入れ、イスラム社会への進出を試みた。カラハン朝やセルジューク朝(1038~1308)である。後者は現在のトルコ共和国の領土、アナトリア半島へと度重なる侵入を繰り返し、東ローマ帝国と争った。そうしてアナトリアは次第にトルコ化していく。
13世紀半ばに、当時アナトリアを支配していたルーム・セルジューク朝がモンゴル勢力に敗れると、支配下にあったトルコ系の小勢力が次々と自立していった。そのうちの一つが後に大帝国へと成長していくオスマン朝であった。
オスマン朝の初期の歴史は史料が乏しくよくわかっていない。
15世紀以降に編纂された年代記によれば、1299年に初代君主のオスマン・ベイが建国を宣言したとされ、一般的にこの年がオスマン朝の建国年とされている。しかし、同時代史料の裏づけはなく異論もある。
初期のオスマン国家がどのような性格の国家だったかについては議論があるが、ガーズィーと呼ばれる戦士集団であったというのが定説である。ガーズィーとは聖戦の戦士を意味する言葉で、異教徒への聖戦という名目でビザンツ領内に侵入し、略奪を行って生計を立てていた集団であったとみられている。要は山賊に毛の生えたような集団に過ぎなかったわけだが、当時はルーム・セルジューク朝、東ローマ帝国共にこうした集団を国境地帯に配置し、辺境防衛の役割を担わせていたようである。
ルーム・セルジューク朝の弱体化につれて、こうした辺境地帯の有象無象の中から現れた有力者たちが君候国(ベイリキ)と呼ばれる小国家を建てていく。
そのうち一つがオスマン・ベイの建国したオスマン君候国であった。
オスマン・ベイがブルサ包囲中に亡くなると、息子オルハン(位1326~1359)が後を継ぎ、ブルサの攻略を果たしてこの町を首都に定めた。
オルハンは東ローマ宮廷の内紛に乗じてバルカン半島に進出し、ヨーロッパ側での領土拡大の足がかりを築くことに成功した。
続いてオルハンの息子ムラト1世の頃にもなると、オスマン朝は東ローマ帝国の都市を次々と陥落させていった。
父ムラト1世の存命中から軍を率いて活躍したバヤズィトは、父が暗殺されたと知るや否や、弟たちを殺し尽くし皇帝バヤズィト1世として即位した。彼は騎馬による移動で諸々の対応にあたり、迅速かつ果敢であったことから、稲妻の皇帝(ユルドゥルム)と称された。
早速セルビアやボスニア、ワラキアなどを屈服させ、東欧、ギリシャで有名なバルカン半島の大半を領有。東ローマ帝国を大幅に縮小させバルカン半島の一点に閉じ込める一方、1391年には東ローマ帝国の都、コンスタンティノープルを包囲。この事実にヨーロッパ諸国は焦燥に駆られ、ハンガリー王国ら十字軍はこれに対抗するが、オスマン帝国はニコポリスの戦いにおいて圧勝、十字軍を難なく下す。
ところが1400年、トルコ・モンゴル系の中央ユーラシア国家、ティムール帝国がオスマン領のアナトリア半島に襲来。オスマン側に対し離反を企てていたトルコ諸侯は、ティムールに寝返り、オスマン帝国を窮地に陥れる(アンカラの戦い)。1402年、大敗を喫したオスマン帝国はバヤズィト1世を捕虜にされる。翌年彼は屈辱と牢獄の中でこの世を去った。
宿敵ティムールはバヤズィトが下した国々を次々と復興させ、傀儡的支配下におき、そしてオスマン帝国へ追撃を繰り返す。アナトリア半島の多くをティムールに奪われボロボロになったオスマン帝国だが、内部においても相続争いによって複雑に分裂し、いよいよ滅亡を思わせた。この危機は1413年まで続く。
しかしここで忘れてはならないのが、バヤズィト1世が東ローマ帝国の都コンスタンティノープルに対し、城塞を築いたことである。
帝国は滅びるはずだった。そう、欧州が内輪揉めさえしていなければ。
英仏が百年戦争の真っただ中であった以上、その2国は東ローマ帝国の救援どころではなく、また他の欧州諸国も自国の統制、外敵との戦いで精一杯であった。これがそのまま、オスマン帝国に「治療の時間」を与えてしまう。
オスマン帝国がその期間を無駄にするはずもなく、バヤズィトの子メフメト1世や、またその子ムラト2世の尽力により、帝国の失地は回復、バルカン半島における支配を再度確実なものとした。彼らはまた、再度コンスタンティノープルの包囲を行い、東ローマ帝国へ圧力をかけた。しかしローマの帝都は中々落ちない。
東ローマ帝国の必死の抵抗はまだまだ続く。1445年ごろからギリシャ領を回復させていった、のちに最後のローマ皇帝となるコンスタンティノス11世は、ぺロポネソス半島を獲得。これに対しオスマン側は反抗、決して譲らぬものとし、ものの見事に奪還した。
「あの街が欲しい」
のちにムラト2世の子、メフメト2世が即位。1452年にボスポラス海峡に城塞を建設、向かいの東ローマ帝国帝都コンスタンティノープルへ圧力をかけた。以前バヤズィト1世が建設した城塞はアジア側、すなわちアナトリア半島であるが、この城塞「ローマの城(ルメリ・ヒサル)」はヨーロッパ側、つまりバルカン半島にあった。これら二つの城塞により、東ローマ帝国は完全に海上で孤立した。
1453年4月、3度目のコンスタンティノープルの包囲。
直属の精鋭部隊イェニチェリからなる10万の兵を率いたメフメト2世は、大砲を駆使し徹底的に攻撃した。相手、すなわち東ローマの兵力はたった7,000である。しかし陥落しない。オスマン軍は包囲を続けるも、この膠着状態は2カ月に及んだ。
メフメト2世は野望を捨てきれなかった。どうしてもあのローマというリンゴが欲しかったのだ。
先代のスルタンにならって、メフメト2世は包囲戦を諦め、短期戦を選択した。失敗のリスクから反対の意見も多かったが、それでもなお、彼は自身の決断に揺るぎない何かを確信していた。
膠着状態を恐れたであろうメフメト2世は、ある策に転じる。金角湾の北側の陸地へ、油を塗った木によって橋を架けるように道を造り、コンスタンティノープルの城壁を70隻の艦隊で超えさせた。そう、これこそが艦隊の山越えである。この奇襲は成功し、東ローマ帝国に決定的な打撃を与えた。
最後のローマ皇帝、コンスタンティノス11世は、オスマン側の「降伏せよ」との声には決してなびかなかった。東ローマ内で和平派が起こる中、彼は降伏を拒否。「ローマ皇帝」として主戦派と共に戦闘の持続を表明した。
5月29日、未明。これに見切りをつけたメフメト2世は、一斉攻撃を開始した。第一波、第二波と耐えるコンスタンティノープルだが、遂に、最後の攻撃によって陥落した。最後のローマ皇帝はトルコ兵の中へと斬りかかり、姿を消す。オスマン帝国はローマ帝国を滅ぼした。
以後、オスマン帝国の領土は飛躍的に拡大し、メフメト2世は「征服帝(ファーティフ)」の称号を得る。コンスタンティノープル(イスタンブル)1を新たな首都とし、オスマンは世界帝国へと飛翔した。
1 しばしば誤解されるが、この時に都市の名前が「イスタンブル」に改称されたわけではない。正式名称としてはこの後も、コンスタンティノープルのトルコ語訛りである「コスタンティニーエ」が使われ続け、正式にイスタンブルへ改称するのはトルコ共和国の建国後になる。
西欧文化や相次ぐ征服に彩られたメフメト2世とは打って変わって、次代のバヤズィト2世は保守的でイスラム教文化に傾倒し、拡大政策に消極的であった。
父帝バヤズィトの消極性に痺れを切らしたその皇子セリムは、2度クーデターを起こし父はおろか兄弟全員を皆殺しにし、政権を掌握した。セリム1世(在位:1512年 - 1520年)の誕生であった。オスマン帝国は彼の下で再び積極的な対外進出を展開した。
セリムが狙ったのはバルカン半島に比べ征服の遅れていた、東方、すなわち西アジア、アフリカ方面への領土拡大であった。東部アナトリアを鎮定し、サファヴィー朝のイスマーイール1世をチャルディラーンの戦いで破り、東アナトリア、北イラクの領域を確保。アフリカ方面では、アルジェ(アルジェリア)を占領し、マムルーク朝を打ち破って、1517年にカイロを占領。マムルーク朝を撃破した後は、北から順にシリア、イェルサレム、エジプトと次々併呑していった。さらに、マムルーク朝が領土としていたアラビア半島の2大聖地であるメッカ・メディナを保護下に置いたことで、帝国はイスラム教スンニ派世界の盟主の地位をも獲得した。
こうしてアラブ地域をも領土とし、セリム1世即位当初と比べ3倍の領土とイスラム教最大の庇護者としての地位を獲得した帝国は、彼の死後、ついに全盛期を迎える。
「赤いリンゴ(クズル・エルマ)を、ヨーロッパを食らい尽くせ!」
16世紀、オスマン帝国は「壮麗帝」スレイマン1世の治世(1520~1566年)のもと、全盛期に達していた。ペルシャ人官僚やトルコ系民族という、この国と同様の点を持つサファヴィー朝(アゼルバイジャンやイラン)からは南イラクを奪取し、また北アフリカ領をも有するようになり、国力は著しく潤い始めていたのである。
ハンガリーを領有したことにより、オスマン帝国は東欧どころか中欧にまで進出した。また当時のオスマンの軍事力は凄まじく、並ぶものなどいなかった。つまりこの時代のオスマン帝国にいわせれば、「ヨーロッパこそが辺境」だったのである。まさに無敵。
中欧、中東、西アジア、北アフリカにまで征服し、黒海、エーゲ海、地中海の制海権を独占し内海とした大帝国。
あのハプスブルク家のカール5世(カルロス1世)、その子フェリペ2世でさえ、神聖ローマ帝国とスペイン、ポルトガル、アメリカ植民地を所領してもなお、最終的にはオスマンの脅威により野望を断念した。ハプスブルク帝国が「西ローマ帝国」の復興を掲げるのならば、オスマン帝国は「東ローマ帝国」の復興を掲げたのである。
16世紀、それはヨーロッパの人々にとって「地中海へ何一つ投げ込むことさえ許されない」時代であった。何故ならこの頃の地中海は、「オスマンの海」なのだから。
スレイマン1世の死後、オスマン帝国は未だ衰えぬ拡大を見せた。スレイマン1世の死後、後を襲ったセリム2世は酒好きで決して英邁とは言えなかった。そのため、彼の治世を契機として以後、スルタンに変わり大宰相が実質的な政務を司るようになる。そして、これを可能としたのは立法帝と後世で言われたスレイマン1世の統治法であった。スレイマン1世の時代、既にエジプトやイエメン、ハンガリーはコンスタンティノープルから遠く、これを支配、防衛するには中央からでは財政面からも軍事面からも不可能になっていた。そのため、統治と防衛を現地の総督が行うこととなるが、中央からの統制と地方ごとの慣習に合わせるために中央と地方ごとの法令集が制定されていた。これを基に、オスマン帝国では大宰相を中心とする官僚制が発展し続けることとなる。
だが、大宰相の地位は必ずしも一つの家柄が占めるわけではなかった。そのため、大宰相に着いた者は自身の権威確立を目指して積極的な外征を進めるようになる。結果として、スレイマン1世の死亡後も領土は拡大し続けたが、帝国の財政は限界に近付きつつあった。
レパントの海戦で西欧連合艦隊に敗北し、半年で艦隊を再建したもののこれに多大な支出を出す。中央では、大宰相がころころ変わり、次代のスルタンの地位を巡って母后が政争を繰り返し、スルタンは宮廷に籠もりきりになった。更に西部ではハプスブルク家との中欧での争い、東部ではサファヴィー朝との戦い、これに加えて、領内の暴徒のために軍事費は増大した。これに、新大陸からの銀の流入による物価高騰(価格革命)が追い打ちをかけた。
17世紀末、第二次ウィーン包囲の失敗を機に帝国の領土は縮小へと転じる。
19世紀に入ると、帝国の領土は急速に縮小し、内部で次々と離反、分裂が起こっていった。これにスルタンの親衛隊であるイェニチェリの腐敗も相まって、オスマン帝国の権威はことごとく凋落していくのだった。
1829年にはギリシャの独立をも認めざるをえなくなり、1830年にはエジプトが事実上の独立を果たす。そしてセルビアを始めとするその他バルカン諸国も、つぎつぎと独立していった。
さらに「凍らない海」を欲するロシア帝国とも度々衝突を起こし(露土戦争・クリミア戦争)、オスマン帝国はいよいよ確実に弱体化していった。クリミア戦争以後、オスマン帝国は他国の援助無しには戦勝できなくなったことが露呈し、「瀕死の病人」というレッテルは否定できぬようになるのである。もちろん負けっぱなしというわけではない。しかしこの衰退期の帝国は、あまりにも無残であった。
これを巻き返すべく、第一次世界大戦にてドイツ側で参戦するも、無残に敗戦した。それを切っ掛けに最後に残ったアナトリアから新たな政府「トルコ共和国」が誕生し、帝国は名実ともに消失。後世へ遺産を残すのみとなった。
2011年11月あたりから放映された大和ハウスのCM、いわゆる「ダイワニャン編」にて、オスマン帝国の軍歌「ジェッディン・デデン」が流された。現在ダイワニャン編その1からその4に渡って流されたことが確認されている。
しかしまるで関連性の見えない組み合わせである。なぜこの曲なのだろうか。なんでダイワハウスなんだ?
掲示板
153 ななしのよっしん
2024/03/07(木) 19:28:27 ID: +8eqp6e1i3
第二次ウィーン包囲の失敗以降はダメダメの印象が強いが、最末期でも割と欧米列強相手に善戦はしてるんだよな
154 ななしのよっしん
2024/09/11(水) 10:10:32 ID: /PGJHisXI+
最後は瀕死の病人になってしまったとはいえ、一君候国から東ローマを超えるほどの土地を征服できたのはやっぱりすごいと思う
まあそれを言うとライバルのサファヴィー朝やハプスブルク家もかなり成り上がった勢力ではあるんだけれど
155 ななしのよっしん
2024/09/11(水) 10:15:59 ID: 7h53ZJM3KT
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最終更新:2024/12/23(月) 00:00
最終更新:2024/12/23(月) 00:00
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