回答受付終了まであと2日
親鸞は徹底して自分の思想と向き合い、阿弥陀如来の絶対他力を直観し、自身の覚りに至りました。
親鸞は徹底して自分の思想と向き合い、阿弥陀如来の絶対他力を直観し、自身の覚りに至りました。 他力とは、阿弥陀如来の力に縋ることであり、他者に助けてもらうことではありませんが、この世のありとあらゆる存在は阿弥陀如来の他力なしには救われないと強く信じることは、他者との繋がりを感じることと強く関係しています。 仏教では自我を絶対にあるものとはしませんが、同時に全くないとも考えません。親鸞は自分自身と徹底的に向き合う中で、絶対視しないと同時に自我を強く意識したのではないか、と思われます。つまり、親鸞の思想にも宗教的実存主義の要素が見出せるのではないでしょうか? キェルケゴールが宗教的実存主義を強調する事で神と繋がり、その繋がりの先に他者を意識できると主張したように、親鸞にもそう言った要素があるような気がします。 さらに後年、西田幾多郎が自身の哲学で、禅宗の「無」の思想と、浄土真宗の「他力」の思想が表裏一体である事を強調しようとしました。絶対無を意識する事で自他の区別を超えた感覚を感じ取れ、それによって他者とも繋がれるとした西田哲学は、実存主義的であり、独我論を回避しようとした哲学です。 親鸞の思想の中に宗教的実存主義を見出せると思われますか?ご意見いただければ幸いです。
哲学、倫理・63閲覧