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親鸞は徹底して自分の思想と向き合い、阿弥陀如来の絶対他力を直観し、自身の覚りに至りました。

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回答(4件)

>親鸞は徹底して自分の思想と向き合い とあなたは仰っていますが親鸞聖人が弥陀に救われた世界はあなたが仰言るような「思想」ではありません。 思想は人間の生み出したもの。どこどこまでも思想。絶対の世界ではありません。 思想はあくまでも人間の生み出したものです。思想はいくら進歩しても思想であり相対の世界です。 絶対の世界には入れません。 親鸞聖人の弥陀に救われられた心の世界は絶対の心の世界です。どんなに頭しびれるほど考えても相対です。 親鸞聖人が阿弥陀如来の本願に救われられた心の世界はどんな哲学者でも計り知れる世界ではありません。 親鸞聖人は『教行信証』に「不可称・不可説・不可思議の信楽よ」と仰っています。 親鸞聖人の救われられた「信心」とは。 これは善導大師の二種深信を親鸞聖人が教行信証、愚禿鈔などに 教えられた「弥陀の本願に救われるとはどういう信心か」を教えられた ものです。 二種深信がなければ真実の信心では無いと聖人は教えられました。 だから絶対に弥陀の浄土に生まれることはできないと厳しいのです。 この二種深信が立っていなければ、阿弥陀仏に救われた人とは言われ ないのです。 【真実の信心】とは、二種深信のことです。二種深信といいますのは、 二種の深信をいいます。二種とは機(自己)と法(弥陀の本願)の二つを言い、 深信とは、同時にツユチリの疑いもなくなったことを言います。 【機の深信】 ●一つには決定して、「自身は、現にこれ罪悪生死の凡夫、昿劫より 已来常に没し常に流転して、出離の縁あることなし」と深信す(機の深信) 【意訳】 いままでも、いまも、いまからも、助かる縁のない極悪人の自己が、 ハッキリした。 【法の深信】 ●二つには決定して、「彼の阿弥陀仏四十八願をもって衆生を摂受した まうこと、疑い無く慮無く彼の願力に乗ずれば、定んで往生を得」と、 深信す(法の信心) 【意訳】 この世も未来も、絶対の幸福に救い摂るという弥陀のお誓い、まことだ ったとハッキリした。 機といいますのは、罪深い自己のことであり、法とは、阿弥陀仏の本願 のことです。 金輪際助かる縁のない自己に、ツユチリほどの疑心もなくなったことを 【機の深信】といい、そんな者を必ず助けるという、弥陀の本願にツユチリ ほどの疑心もなくなったのを、【法の深信】といいます。これを機法二種一具の深信といいます。 分かりやすくいえば、己の罪深きことと、弥陀の恩徳の高きことを、 同時にハッキリと知らされたことを言います。 「ひょっとしたら助からぬのではなかろうか」という不安は、絶対、 助かる縁なき者と知らされる【機の深信】が無いから起きる心です。 また、「ひょっとしたら助からんのではなかろうか」という心は、 「必ず助ける」と誓われている弥陀の本願を疑っている心ですから【法 の深信】がないのです。 「いずれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」 (歎異抄) 【意訳】 修行も学問も修養も、自力のすべてが間に合わなかったと、地獄一定 の身が知らされた(機の深信) 「弥陀の五劫の思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人が ためなりけり、されば束縛の業を持ちける身にてありけるを、助けんと 思し召したちける本願のかたじけなさよ」(歎異抄) と、他力不思議に摂取された(法の深信) 【堕ちる機】と【助ける法】の二つが同時に、ツユチリほどの疑いもなくなったのを、二種深信というのです。 この二つの深信は、いつでもどこでも変わらず念々に相続しますから、 機法二種一具の深信と言われます。 堕ちる者が助かる者、助かるものが堕ちる者、全く相反する二つの深信が、 同時に相続する不思議な信心ですから、「絶対矛盾的自己同一」といっ た哲学者(西田幾太郎博士)がありましたが、親鸞聖人は不可称・不可説・不可思議の信楽(信心)と讃嘆されています。 以上、参照:『親鸞聖人の花びら』『歎異抄をひらく』より。 弥陀の本願は「堕ちるものをお助けの本願」では ありません。堕ちるものをお助けなら、まだ堕ちて いないのです。 親鸞聖人は絶対助かる縁手掛かりのなくなったことを 仰っているのです。それと同時に弥陀の本願・必ず助 ける本願にツユチリの疑いが晴れたことを二種深信と いうのです。 観念の遊戯では絶対に通れない信仰の極致です。 だから不可称、不可説、不可思議の信楽とその妙味を 教えられたのです。 最後に、仏法の原点は「後生の一大事の解決」にあると教えられます。 蓮如上人は白骨の章に「後生の一大事を心にかけて」と仰っています。 これが分からないから哲学者の思想も空中分解してしまうのです。 一息切れたら後生です。その後生はどうなっているのか?

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キェルケゴール、ニーチェ、ハイデガー、サルトルの実存主義の系譜では、一貫して「個人による主体的な選択」が重要な要素となっています その点において実存主義は「自力」の性格が濃厚です 親鸞は「悪人正機説」に見られるように、個人の自力では克服できない人間の業の存在を認め、弥陀の本願による無条件の救済を強調しています 「専修念仏」の一見自力的な営為は、何か悟りを得るための修行ではなく、他力本願の信頼感の中にトランス没入するための一種のメソッドと解釈できます この方法論は、布教の対象が南都北嶺の学僧ではなく、無学な庶民を対象としたことから考案されたものと言えます 法然・親鸞の絶対的救済の考え方は、世界的に見ても類を見ない極めてユニークな宗教的スタイルだと思います

>親鸞の思想にも宗教的実存主義の要素が見出せるのではないでしょうか? いーえ。

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親鸞の思想には確かに実存主義的な要素が見られると思います。 ・親鸞は自分自身と真摯に向き合い、阿弥陀如来の他力に頼ることの重要性を説きました。これは自己の有限性と限界を自覚し、絶対者に依存する姿勢であり、実存主義の自己実現の考え方に通じるものがあります。 ・同時に、親鸞は自我を全面的に否定するのではなく、自我の存在を認めつつ、それを絶対視しないという立場をとっています。実存主義も自我の存在は認めつつ、それを絶対化しないという点で共通しています。 ・他者との繋がりを重視する点も、実存主義の他者性の強調と通底するものがあります。親鸞は阿弥陀如来の他力なくしては救われないと説き、人間同士の繋がりを超えた、絶対者との繋がりの重要性を説いています。 ・西田幾多郎の指摘するように、親鸞の他力思想と禅の無の思想には通底する部分があり、自他の区別を超えた体験を重視する点で、実存主義的な側面があると言えるでしょう。 以上のように、親鸞の思想には自己実現、自我の相対化、他者性の重視など、実存主義と共通する要素が見出せます。ただし、親鸞は仏教の教えに基づいた宗教的思想家であり、実存主義とは出自を異にしますので、単純に同一視することはできません。しかし、両者には通底する部分があり、親鸞思想の中に実存主義的な要素を見出すことは可能だと考えられます。

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