知っておきたい今井むつみさんの認知科学の広くて深い世界を、体系的に学べるように、えりすぐってお届けしていきます。今週は、今井むつみさんが監修・解説を務める『 きょう、ゴリラをうえたよ 愉快で深いこどものいいまちがい集 』(水野太貴・文、吉本ユータヌキ・イラスト、KADOKAWA)からの抜粋です。5回目は、今井さんによる解説です。

笑いと洞察の瞬間 言語の本質的な特徴と人間の思考のしかた

 小さな子どものいいまちがいは私たち大人に何を与えてくれるのか?
 聴いた大人の気持ちをオノマトペで表すと……
 ガハハ、ブッ(大爆笑)、クスッ、ニッコリ、ホッコリ、キュンキュン……
 自分もこういう思い違いをしていたな~という共感とノスタルジー。
 こういうおバカなまちがいをしなくなった自分は成長したな~という感慨。
 この本は、確実に私たちを幸せな気持ちにしてくれる本です。
 大人の社会では争いが絶えません。政治の場でも、会社でも、どんな組織でも、必ずといってよいほど、大なり小なりの軋轢(あつれき)があり、争いごとがあります。争っている人たちにこの本をプレゼントしてあげてください。きっと世界から争いがなくなりますよ。というのは、言い過ぎですが、そうなってほしいと心から願っています。

 でも、この本の真価はそれだけではありません。この本は、私たち大人に、「言語とはどういうものか」、そして「言語を学び、使いこなすために人間はどういう能力を持っているか」という大問題を考える手がかりを与えてくれるのです。

 「ゆる言語学ラジオ」では、2022年から「赤ちゃんズミステイクアワード」という不定期コーナーで、愉快で示唆に富む子どもの「いいまちがい」の募集をしています。現在1200件を超す投稿をいただいているそうです。言語発達や人間の学び、思考のクセなどを研究する私の眼(め)からみると、どれも、素晴らしい「作品」で、この「いいまちがい集」は宝の山です。集められた作品たちから、ほんとうにたくさんのことを教えていただきました。拙著『言語の本質』(中公新書、秋田喜美(あきた・きみ)さんとの共著)にも、随所に論を展開するためのデータとして使わせていただきました。「作品」をご提供くださったみなさまと、これらの貴重なデータを私たち研究者に公開してくださっている「ゆる言語学ラジオ」の水野太貴(みずの・だいき)さん、堀元見(ほりもと・けん)さんには、改めてこの場でお礼を言わせてください。

 たくさんの応募作品の中から、水野さんが80のエピソードを厳選し、それぞれに、楽しい、そして奥深いコメントを書かれています。私は、本書の巻末に「解説文」を書くように仰せつかったので、水野さんのコメントよりも一段「メタ」な視点で、全作品を通して、子どもたちの愉快ないいまちがいたちが私たちに何を教えてくれるのかを書いてみようと思います。本書を手にお取りくださった方々、私にも、ちょっとだけおつきあいくださいませ。

ことばはシーンを表すのではない

 1歳、2歳台のいいまちがいで特に多いのは、ことばを特定の状況に結びつけてしまうこと。例えば、お墓参りで「ハッピバースデー」と言った子ども。この子は、「ハッピバースデー」ということばは「ろうそくがある場所で使うことば」と思ったのでしょう。人差し指のことを「1」と思った子どももいました。大人は「1」を言うときに、たしかに人差し指を立てます。「1」は人差し指のことだと思うのは、まったく無理のないことです。

 ロケットが切り離されたときのテレビ中継を見て、「うちゅうがとれちゃったー!」と言った子どももいます。ロケットといっしょに「うちゅう」ということばを聞いていたから、「宇宙」はロケットのことだと思ったのですね。

 このように、ある状況で、知らないことばを聞いた時、そのことばが何を指しているのかは、すぐにわかることではありません。これは「ガヴァガイ問題」として知られています。言葉が通じない土地で現地の人が、野原を横切ったウサギのほうを指さし、「ガヴァガイ」と言ったとき「ガヴァガイ」は何を意味するか? 多くの人は「ウサギ」と答えるでしょう。しかし、「耳の長い動物」という意味かもしれないし、「食べ物だ!」かもしれない。ありとあらゆる可能性があるのです。その中で、私たち大人が「ガヴァガイ」を「ウサギのことだ」とすぐに思ってしまうこと自体が、不思議なことです。私たちは論理的に可能なありとあらゆる意味を吟味したりしない。最初から「○○」は「△△」を指す、と決めてかかっています。それは、私たち大人が、「ことばというのはこういう概念を指す。こういう概念は指さない」ということを無意識に知っているからなのです。
 しかし、小さい子どもは、まだそのような思い込みをもちません。ことばをおぼえるということは、そのことばが言われた状況で、それが指し示す対象を切り取るところから始まります。ことば(単語)は、状況そのものをベタっと指し示すことはありません。特定の基準で世界を切り取り、その対象のカテゴリーを名づけます。事物を表す名詞はモノのカテゴリーを切り取ります。その時、ことばで指示されるモノは、異なる状況で現れても、異なる動作の中で使われても、同じ名前で言い表されます。

 動詞は一般的には行為を表します。しかし、動作を表す場合もあれば、行為の結果のみを表す場合もあります。例えば「アルク」は歩いている動作を指します。「カタヅケル」は、行為の結果を指します。整頓されていない状況から、片付いて整頓された結果に変化させれば、「カタヅケル」が使えます。

動詞の意味は視点で変わる

 動詞の意味には「視点」も入りこみます。
「ともだちのうちにあそびにくるね」
 英語で「すぐ(そっちに)行くよ」と言うとき“I’m going.”ではなく“I’m coming.”と言います。take とbringの使い方もそれと連動しています。「パーティにワインを持って行くね」と英語で言うとき、“I will bring wine to the party.”と言います。英語では、相手がいるところを基準にして、そこに近づいていけばcome を使います。しかし日本語は、自分を基準にして、相手に近づいていくときは「行く」と言うのです。おともだちのうちに「くるね」と言った子は、英語の発想で「行く」「来る」の意味を考えたのですね。
 「行く」「来る」の方向性は、目で見てわかるものではありません。視点の中心をどこにもってくるかについての文化特有の慣習を知らなければなりません。でも、それを大人は教えてくれない。というより、意識の上では気づいていないのです。大人でも気づいていないことを子どもは自分で発見しなければならないのです。

 動詞は、動作なのか、結果なのかを見極めるのも難しいし、それぞれの状況に共通するビジュアル的な手がかりはほとんどない。お父さんやお母さんが口で説明することさえできない、文化の慣習で決まる視点も入り込んでくる。でも、ことばを覚えていく小さい子どもは、結局は、こんな複雑な視点システムを見破ることができるのです。
 動詞の意味を正しく推論するのは、シャーロック・ホームズなみの推論の力が必要なのです。最初は戸惑い、たくさんのまちがいをしながらも、最終的にはこんなに複雑で抽象的なシステムを自分で発見し、膨大な数のことばを覚え、言語を使いこなせるようになる人間の子ども。ほんとうに脱帽するしかありません。

単語が複数の意味を持つ理由

 「赤ちゃんズミステイクアワード」の応募作品で目立ったのは、単語の意味の「誤解」です。やきそばを食べたかった子が、お店の人に「今日は麺が切れていまして……」と言われ、「ぼく、めんがきれててもいい! みじかくてもいい!」と言ったエピソードがありました。私の大のお気に入りです。
 単語は、たいてい複数の意味をもちます。なぜでしょう? 答えは「言語の経済性」です。言語の本質的な特徴として、「経済的であること」ということがあります(詳しくは拙著『言語の本質』の第3章をお読みください)。金銭的な意味での「経済性」ではありません。言語の情報処理をするときに、脳への負担をなるべく少なくする、という意味での「経済性」です。単語ひとつについて、ひとつの意味しかもつことができなかったら何が起こるでしょうか? 単語の数がものすごく増えてしまいますね。

 覚えなければならない単語の数をなるべく減らして、でも表現のクオリティは下げたくない。このジレンマを解決するのは、ひとつの単語に複数の意味をもたせることです。これが多義語が必要になる所以(ゆえん)です。
 ひとつの単語の複数の意味を簡単に覚えられるか。そうではないようです。
 「ボールぽーいして」とお母さんが言ったら、ボールをつかんでゴミ箱に捨てた、という愉快な例がありました。「ポイする」ということば(オノマトペの動詞)は、「捨てる」という意味と「投げる」という意味の両方で使われます。この子は「捨てる」しか知らなかったのですね。目が痛くて泣いていた子ども。「(目を)パチパチしてごらん」と言われて、涙を流しながら「手をパチパチ」たたいたという、可愛くも、かわいそうなエピソードもありました。

 言語は、まったく同じ表現でも、文脈によって違う意味に解釈できます。それこそが、言語のとても重要な特徴のひとつです。大人でも一瞬考えてしまうかもしれません。
 それでも、「経済性の原理」は大事で、単語の意味を文脈に応じて毎回解釈しなければならないというコストを払っても、必要な単語の数を抑えるほうが大事なのです。

比喩は言語の本質

 多義語は単語の典型的な意味から比喩的に派生し、その使い方が慣習としてコミュニティに共有されたものと考えられるかもしれません。まだ慣習となっていないと比喩と受け止められるのかもしれません。
 回転寿司のお店で、流れてくるお寿司をみて、「おすしのさんぽ」と言った子ども。
 ネックレスのことを「くびしまり」と言った子ども。
 「たいらな歌うたって」とか「ちょっとくにゃくにゃな歌だね」と言った子ども。
 こういういいまちがいはみんな、すてきな比喩の表現ですね。子どものころから、自然とことばを比喩的に使うことができます。この力をもってことばを使っていけば、自然に単語のひとつの意味は拡張されていき、多義になります。多義語の慣習的な意味を文脈に応じて解釈するのは小さい子どもには難しいけれど、人間が幼いころからもつ想像力で、知っている単語の意味を比喩的に拡張するのは、ごく自然なことなのです。
 そういえば、時間の表現も、空間からの比喩でできています。例えば、「まえ」とか「うしろ」とか。「2週間あと」「ひと月まえ」などと言いますね。目に見えない概念を、目に見える概念のことばの比喩として表現することは、言語の特徴です。「1年前のことを振り返る」とも大人は言います。みなさんは、この文の矛盾にお気づきですか? 「1年前」は時間が過去へ向かうモデルです。一方で「振り返る」は、自分が未来に向かうモデルを使っているのです。大人はこの矛盾したふたつのモデルを意識することなく言語の慣習として使っています。

 子どもはさまざまに大人が当たり前に思っている言語の慣習とは外れたことを言います。言語の慣習と明らかにバッティングしなければ、「かわいい詩人のような言い方」と大人は思います。でも、慣習的に決まった言い方があると、「まちがい」になってしまうのです。子どもがことばを覚え、使いこなすようになって立派な母語話者になるというのは、慣習によって、言語の表現上の論理の矛盾に気づかないほど、自分の思考を言語に溶け込ませてしまうことなのだ、ということも言えるかもしれません。
 人間は、子どもの時から、自由に想像力を羽ばたかせてことばを拡張する能力を持っています。それは人間の素晴らしい性質であり、文化を創造する原動力になります。しかし、コミュニティのメンバー全員が言語を理解し合えるためには、各個人の想像力に制限をかけて、共通に使える決まりごとも必要になってきます。これが慣習なのです。
 子どものいいまちがいの「作品」を見ていると、言語の本質的な特徴をさまざまな方面から多彩に見せてくれます。また、人間が生まれながらにもつ思考のしかたや推論能力から言語がどのように生まれてきて、進化し、現在の姿になってきたかという問題について、さまざまな仮説を私たちに考えさせてくれます。私も、これらについてもっともっとみなさんにお話ししたいことがあります。でも、もう解説文としてはすでに長くなりすぎたので、それはまたの機会にさせていただくことにいたしましょう。
 では、みなさん、赤ちゃんのいいまちがいの作品集を、心から楽しんで、ほっこりしてくださいね~。