2024年に新書大賞を受賞した『言語の本質』(中公新書)をはじめ、『「何回説明しても伝わらない」はなぜ起こるのか?』(日経BP)、『学力喪失』(岩波新書)など続々と話題作を発表し続けている今井むつみさん。鋭い分析と考察、そしてその背後にある人間、とりわけ子どもたちの学びへの強い視線に、心引かれている人も多いのではないでしょうか。このパートでは、認知科学の中でも今井さんが重視している「学び」、そして「熟達」について理解を深めるための本を取り上げます。1回目は、『プルーストとイカ』『カンマの女王』です。
「文章を読む」は実は簡単にできることではない
「読む」という行為は、単に「文字を解読して意味を取ること」だと思われています。でも実は、「読む」という行為はものすごく複雑な知的行為です。
認知神経科学者メアリアン・ウルフの『
プルーストとイカ 読書は脳をどのように変えるのか?
』(小松淳子訳、インターシフト)が特別なのは、その「読む」ということの複雑さと素晴らしさを教えてくれるところです。
私たちがものを読むとき、まずは「画像としての文字」を「音」に結び付けるところから始まります。一つ一つの文字を認識し、音に変換して、ある文字列を「単語」だと認識します。こうした単語の識別とともに、文法の知識を使うことで、単語の組み合わせである「文」の意味の理解に進むことができます。
こうした文字の理解と文の理解をパラレルにこなすことができて初めて、文章の意味を考えるという段階に進めます。文章を読むときに人が行っているのは、1秒の何分の一という高速での情報処理です。
しかも、文の意味が分かったとしても、まだ「文章を読める」ということにはなりません。なぜなら、ここでいう「文章を読める」というのは、書かれている一語一語を文字通り「読む」だけではなく、「その文章に何が書かれているかを理解する」ことも含むからです。
「何が書かれているのかを理解する」ためには、その文章が扱っているテーマについてのスキーマ(人それぞれが持っている知識や思考の枠組み)や、背景知識が必要です。
私自身、先日ちょっとした理由で、古代オリエント文明に関する論文を読む機会がありました。単語や文の意味はもちろん分かりましたが、たいへん難しく感じ、またかなり時間がかかりました。確かに目は通しましたが、正しく理解できたかどうかは疑わしい。こうした状態では、「文章を読めた」とは言いがたいものです。
また、本を読み進めたり、その面白さを味わったりするためには、読み終わった部分の「表象」、つまり「まとまった内容の理解像」をつくる力も必要となります。
本を読むとき、そこに書かれている単語の一語一語、あるいは一文一文を覚えていくわけではありませんよね。「だいたいこんなことが書いてあった」というイメージ像を逐次つくりながら、自分が持っているスキーマと突き合わせて読み進めていく。こうした、ある種の「振り返り」の作業が伴っているはずです。
このように書くと、「読む」ということは、とんでもなく難しいことのように感じるかもしれません。しかし皆さんの脳の中でも、いま、この文章を読んでいる瞬間に、この作業が行われています。ほとんど意識することなく、私たちはものすごく複雑な認知作業を行っているのです。
『プルーストとイカ』で書かれているのは、こうした「読む」ことと脳の発達との関係です。文字がまだ読めない時期の子どもの脳から、文字が読めるようになった初期の読み手、それから熟達した読み手になるまでに、どのように脳が変わっていくのかということを分かりやすく紹介しています。
「読む」という行為の熟達について、熟達すると脳がどう変わるのか。なぜ変わるのか。脳が変わることで何が起こるのか。脳の変化は認知の変化にどうつながり、どのような行動変化をもたらすのか。そういった「学び」の仕組みを、「脳と認知」「身体」「行動」の3つのレベルで理解するために最適な書だと思います。
また、「読みの達人」に成長するために、どのように環境を整え、どのように子どもを導くのが最善なのかを教えてくれる、優れた教育書であることもポイントです。
カンマひとつにも魂が宿るわけ
このように「読む」という行為ひとつとっても、熟達や学びと深い関連があります。では、そうした行為に熟達し、達人になるとどうなるのか。
この「達人の心構え」を知る上で参考になるのが、アメリカの老舗雑誌「ニューヨーカー」の校正係、メアリ・ノリスの『
カンマの女王 「ニューヨーカー」校正係のここだけの話
』(有好宏文訳、柏書房)です。
「ニューヨーカー」は、約100年続く老舗雑誌。校正のルールも厳格です。その校正係というのは、カンマを入れるか入れないか、入れるならどこに入れるかに命をかける仕事です。彼らが見ているのは、「カンマを見逃さないように」とか、そういう単純なことではありません。
言語に絶対の「正解」があるわけではありません。文法書に記載されたルールが、必ずしももっとも力強く、執筆者の意図を伝えるわけでもありません。
高名な作家が、文法のルールを逸脱したときにどのように対処するのか。例えば"Ask Tom and I." のような、「me」との取り違えとも見える文が書いてあったときにどう処理するのか。
単なる間違いかもしれない。しかし、「I」を使った背景には、「meよりIのほうが強いインパクトを与える」などの、執筆者の無意識の心の動きがあるかもしれません。もしくは正しくはmeと分かっていて、あえて文法的に正しくないほうを使った可能性すらあります。
ルールを頭にたたき込んだ上で、それを機械的に適用するのではなく、「本当にそれでいいのか」「それが本当に執筆者の言いたいことなのだろうか」と徹底的に考える。下手したら執筆者より考えている可能性すらあると思います。カンマひとつに執筆者の意図を読み取り、読者の誤読を防ぐ。
この執筆者と読者をつなぐ存在としての「カンマの女王」には、心が動かされます。
私自身は、最近、一般の方向けの本を書く機会が増えて、文章の書き方がだいぶ変わりました。というのも、論文の執筆では読点はあまり打たず、2ページくらいならパラグラフを変えないで書いたことすらあったんです。でも、一般の方向けではそうはいきません。編集や校正の方にずいぶん指摘されて、読点も打つようになりましたし、段落も変えるようになりました。
この本を読んで変わった、というような因果関係はありませんが、少なからず影響を受けているような気がしています。
熟達した先に待つ「達人の世界」
熟達というのは、単に「正しくできること」ではありません。熟達者が行っているのは、正しいことというより、その状況でベストなものをつくり出すことといったほうが近いかもしれません。
ときにそれは、一般的には正しくないこともある。でも、そのほうが人の心に響いたり、伝わりやすかったりするかもしれない。それを的確に選び取っていく力ともいえると思います。
最近の文書作成ソフトにはだいたいスペルチェック機能がついていて、それを使うと、日本語のルールから外れた場合にはアンダーラインを引くなどして指摘してきますね。ビジネス文書の場合はもちろん、正しいことが重要な場合も多いと思います。
でも、ルールより大切な、伝えたいことがある場合もあるわけです。そういった機微をすくい取るのが「カンマの女王」の仕事であり、それを裏付けているのが、校正者としての熟達なのです。
(取材・文/黒坂真由子 写真/稲垣純也)
今井むつみ著/日経BP/1870円(税込み)