2025-08-30

「諸説あります」の多発による、歴史というものに対する不信感

最近語源など昔の話を述べるときに、「諸説あります」という言葉を添えるパターンが多くなったと思う。

ここで疑問に思うのは、一般的歴史的事物は「諸説あります」の対象にならないのだろうかということである

テレビで扱うような小ネタは「諸説あります」とされ、学問権威が述べるような歴史は「諸説あります」とされないのは、なぜなのだろうか。

特に一定の時期以前の歴史的事物証拠ほとんど無いので、教科書に載るような事項も全て「諸説あります」として、断定を避けたほうが良いのではないだろうか。

いくつかの事物相互に正しさを確かめたから「正しい」っていうのは、理系的(論理的)に正しいこととは根本的に異なる気がするし。

そして、そもそも、そんな不確定な事物を「歴史」として、小中学校で教えるべきなんだろうか。

少なくとも、歴史の授業では「諸説」が存在することを教えるべきではなかろうか。

「諸説」の多用によって、唯一な存在だと思っていた歴史というものが、いよいよ根源的に信じられなくなってきた最近である

  • 複数の物理的証拠によって確定できないものは学問的に扱われずに小ネタになって諸説ありますになるわけ

記事への反応(ブックマークコメント)

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん