民主党の行方 ③ 新代表 前原氏研究 1
- 2005/09/18
- 09:27
前原氏の発言等のまとめは、ぼやきくっくりさんのブログが大変参考になりますので、リンクを貼らせて頂きます。
昨日のエントリーで前原氏の簡単なプロフィールについて書いておりますので、ここでは割愛しますが、京都大学卒業後、松下政経塾に入った後、京都府議会議員となる。社会人経験なし。
では、府議会議員になった後の前原氏の活動を並べてみたいと思います。
以下、MPI経営・政策勉強会 京都、前原氏インタビューからの引用。
京都は大阪とならんで、同和対策に力をいれている所ですので、新人議員でありながら副委員長を勤められてるのは異例なのかなと思ったりします。厚生労働、環境対策委員、同和推進副委員長、文教委員を歴任
また、氏の安全保障に関する考えと、いわゆる歴史認識に奇妙なズレがあるのは、この辺に理由があるのかもしれません。
では、そのあたりを詳しく書いていきたいと思います。
このインタビューには、前原氏がどのように始めての選挙戦を戦ったという苦労話が掲載されています。
――――地盤やカバンはどうだったのですか?
苦労したのは、この地盤とカバンがないことでしたね。
この左京区というのは、ぼくの生まれた場所ですが、親父が死んでからは、山科区に引越したんです。ですから中学2年生からずっと離れていたので、そのとき住んでいた山科で出馬するか、生まれ育った左京で出馬するかずっと迷ったんです。
結局、生まれ育ったところということで、左京で立候補して、今に至るんですけれども。
地盤・カバンの問題もありますけど、まずは、まあ、票を集めなければならない。
票を集めるっていうことは、これはねずみ講と一緒でね。知り合いから知り合いを辿っていくわけですよ。これが大変でしたよね。だから、昔の小学校の同級生、またはその親御さんといったところを辿って、紹介してもらうんですよ。
だから本当、ねずみ講とかわらない。ゼロからスタートしていくわけですね、だから本当に砂に水をまくようなものでした。ポスターも自分で貼っていかなくてはいけませんから、かといってどこにでも貼ってもいいものでもないですし、したがって、一軒一軒たのんでいくわけですよ。今でも覚えていますよ。9月の23日、
平成二年の秋分の日に、ポスターを貼り始めたんですけど、半日回って、三軒しかOKをもらえなかった。ず~っとまわったのにね。
だから、そういうものをやっていくのは本当に気が遠くなるような作業だった。
ただそれを続けていけば、支援者というのは自然とひろがるもので、大体そうですね、
八ヶ月で1万件くらい歩いたんですよ、家を。今でも忘れませんよ、
9678票という票をいただいたのは、回ったぶんだけ票がでたかんじでしたね。
で、半日で3枚しか貼れなかったポスターも、おかげで、選挙の直前には2000枚くらい
貼れたのかな、左京区で。
毎朝月曜から土曜まで、七時半から九時まで、街頭演説をやり、そして、十時くらいから
夜の六時七時くらいまでは、家をあるき、そしてそれから残務整理をする
という毎日を続けていました。
で、戻るんですが、大変だったのは、体の大変さと同時にお金がかかるんですね。
事務所をかまえる。ポスターをつくる。名刺をつくる。ビラを作る。
あるいは、事務所にアルバイトのひとを雇わなくてはいけない。
アルバイトだけじゃなくて、手伝ってくれるひとがいるかもしれない。
ことお金がかかって・・・、これは本当賭けでしたけどね、
最終的に選挙が終わるころには借金が残った。落ちていたら大変なことになっていた。
収入がないのに、借金があって。この借金も、いわば応援してくださる方が、無担保で、出世払い的にかしてくれるのが多くて、あとは母親が持っていたマンションを担保にして・・・、
だから下手をしたら、家がなくなってしまうリスクを背負ってやりましたけどね。
いまとなっては笑い話ですみますけれど、その当時は落ちていたら大変なことになっていた。
――――そういった地道な努力と前原さんのご人望によって、今があるというわけですね
いやまあ、なんかやろうとおもったら、リスクをとるかとらないかっていうのはありますよね。
安全なところでは、なかなか新たなものっていうのは、うまれてこない。
商売と一緒じゃないですか
選挙には大変なお金がかかります。そのあたりの苦労がこのインタビューからはにじみ出ていますね。立候補する議員にはいろんな人や団体が近寄ってきて、選挙資金をカンパしたり貸し付けたりと、援助をする見返りに自分達の意見を議会に反映させてくれるよう陳情します。
議員にとって、物心両方の支援をしてくれる支援者というのは、大変頼もしいと同時に、自分の政治信条とは違った要望を訴えてくる場合は厄介であると思います。
前原氏の支援者の詳細はわからないので、はっきりと書く事はできませんが、支援者の中に同和対策を求めてくる人がいたのかもしれませんね。
同和、在日、中国、朝鮮半島と聞けば、反日、人権、差別といったイメージが真っ先に浮かび上がってきます。かなりの分野で共闘関係にあるように見えるこのグループからの支援があったとすれば、前原氏の安全保障政策と歴史認識に関する乖離の理由を知るヒントの一つになるのではないでしょうか?
長くなりましたので、続きは次のエントリーとさせて頂きます。
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