SPD
エス‐ピー‐ディー【SPD】
読み方:えすぴーでぃー
エス‐ピー‐ディー【SPD】
読み方:えすぴーでぃー
エス‐ペー‐デー【SPD】
読み方:えすぺーでー
サプリメンタリー・ペトロリアム・デューティ
【英】: supplementary petroleum duty
略語: SPD
英国において、1981 年 1 月から 1982 年 6 月まで課税された石油操業に対する特別の石油付加税。税率は 20 %で総収入から年間 1 百万トン相当額を控除したものを課税所得とした。PRT および法人税の算出に際して SPD は所得控除が認められた。1981 年の Financial Act で導入され、1982 年の税制改正で APRT(PRT の前払い)に切り換えられた。SPD と APRT は税額の算出方法などが全く同じであるが、 PRT の課税にあたって APRT は税額控除されるが、SPD は所得控除が認められたにすぎない点で異なる。なお、APRT は当初税率 20 %が漸次引き下げられ 1987 年比率はゼロとなり廃止されることになっている。 |
SPD
エスピーディー(SPD)
S.P.D.
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/09 23:37 UTC 版)
「S.P.D.」 | ||||||||
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SPEED の シングル | ||||||||
B面 | UTAKATA | |||||||
リリース | ||||||||
規格 | 12cmCD デジタル・ダウンロード | |||||||
ジャンル | J-POP、R&B | |||||||
時間 | ||||||||
レーベル | SONIC GROOVE | |||||||
作詞・作曲 | shungo.,Kye Sones,Peter Martin,Jonathan Shave Mats Lie Skare(Warner/Chappell Music Scandinavia AB) | |||||||
チャート最高順位 | ||||||||
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SPEED 年表 | ||||||||
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『S.P.D.』(エス・ピー・ディー)は、日本の女性歌手グループ、SPEEDの16枚目のシングル。完全復活第2弾シングルとしてリリースされた作品である。
解説
- 前作『あしたの空』から約半年振り、完全復活後2作目のシングルとなった。
- 前作同様、PVやオフショット映像が収録されたDVD付きとCDのみの2形態で発売された。
- カップリング曲も含めて前々作から2曲ぶり、SPEEDとしては同2作目の伊秩弘将プロデュース作品ではない作品である。また、シングルが新曲のみで構成されているのは13枚目の『Be My Love』以来約6年ぶりである。
- 「S.P.D.」は、Splendid(=素晴らしい)、Pop(=ポップな)、Dance(=ダンス)を意味する。また、SPEEDという意味もかけられていると『笑っていいとも!』出演時に語った。
- 本シングルのパッケージ全2曲の作詞を手がけたのは、HIMKという別筆記名を持ち、かつてhiro名義の島袋寛子の最初のソロ・シングル曲にもなった「AS TIME GOES BY」の作詞を手がけたshungo.である。SPEEDに作品を提供するのは本作が初となるが、shungo.は1995年から1997年にかけて活動した伊秩弘将主宰のボーカル&ダンスユニットHIM(エイチ・アイ・エム)のオリジナル・メンバーであり、SPEEDは1度、彼らのオリジナル曲「SEVENTEEN DANCE 〜I'VE BEEN LOOKIN' 4 U」を歌詞の一部分とタイトルを変更し「アダムとイブ」としてカバー、10枚目のシングル『Breakin' out to the morning』のカップリングに収録したというつながりがある(なお、この時同シングルに同じくカップリングとして収録されたEriko with Crunch名義の楽曲「EVERYDAY, BE WITH YOU」も、やはりHIMの同名同曲のカバーである)。
収録曲
CD
- S.P.D. (3:58)
- 日本テレビ系バラエティ『ぐるぐるナインティナイン』エンディングテーマ(2009年4月 - 6月)。
- エイベックス・グループ・ホールディングス「新・オンガク生活 mu-mo」タイアップソング。
- ロンドンで活動する南アフリカ出身のコンポーザーを起用した。
- 今井は自身のブログ[1]でこの曲を「SPEEDっぽくない感じ」と述べている。
- 4月18日放送の上原のラジオ番組『上原多香子のクローストゥユー』で初めてフルコーラスでオンエアされた。
- UTAKATA (3:05)
- 作詞:shungo. / 作曲:Mats Lie Skare (Warner / Chappell Music Scandinavia AB)
- S.P.D. (Instrumental)
- UTAKATA (Instrumental)
※2曲とも編曲者は公表されていない
DVD
プロモーション活動
2009年の放送番組出演
テレビ出演
- Channel a(5月21日 - 5月27日放送、テレビ神奈川)
- 密着ドキュメントのコーナー「a's nude」でPV撮影現場が紹介された。
- 最新ヒット ウエンズデーJ-POP(5月27日放送、NHK衛星第2テレビジョン)
- 初出演であるとともに、この番組でテレビ初披露された。
- 魁!音楽番付(5月27日放送、フジテレビ)
- ミュージックステーション(5月29日放送、テレビ朝日)
- 音楽戦士 MUSIC FIGHTER(5月29日放送、日本テレビ)
- スタジオトークのゲストとしての出演は初めてとなった。
- ミュージックフェア(5月30日放送、フジテレビ)
- CDTV(5月30日放送、TBS)
- MUSIC JAPAN(5月31日放送、NHK)
- うたばん(6月7日放送、TBS)
※音楽番組のみ。
ラジオ出演
- 銀河に吠えろ!宇宙GメンTAKUYA(5月26日放送、ニッポン放送)
- 番組内のコーナー「GUEST G」に生出演した。
- ON8(5月28日放送、bay fm)
- DHC COUNTDOWN JAPAN(5月30日放送、TOKYO FM)
- THE CLICKERS(5月30日放送、J-WAVE)
- コメントのみでの出演となった。
- Fresh Up 9(6月2日放送、NACK5)
- COUNTDOWN CONNECTIONS(6月6日放送、FM-FUJI)
- 三四六・吉井歌奈子 TOKYO CHEERS(6月7日放送、文化放送)
- tre-sen(6月8日放送、Fm yokohama)
カタログ
- CD+DVD:AVCD-16180 ¥1,800
- CDのみ:AVCD-16181 ¥1,050
出典
- ^ 公式サイト内のブログ
- ^ VISION FACTORY携帯サイト内のインタビューより
外部リンク
- エイベックス・グループによる紹介ページ
SPD
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/08 21:54 UTC 版)
SPD
- 政党
- 企業
- 避雷器。Surge Protective Device の略。
- 物流管理。Supply Processing & Distribution の略。
- フローチャートを表す図法の一種。Structured Programming Diagramの略。
- コンピューターに装着するメモリモジュールの仕様を記憶させておく機能。またはその装置。Serial Presence Detect の略。
- シマノが開発した自転車のペダルとシューズのビンディング機構の略称(Shimano Pedaling Dynamics、SPD)
- スーパーポストドクター。日本学術振興会特別研究員のポストドクターのうち、業績の優れている者。(Super Post Doctor)[1]
- インダストリアル・エンジニアリング用語。日当たり出来高数。Stroke Par Day の略。
- 上海パフォーマンスドール。Shanghai Performance Doll の略。
- SPEEDのシングル作品、「S.P.D.」。
- Say-you!パフォーマンスドールの略。
- スキゾイドパーソナリティ障害。Schizoid Personality Disorder の略。
- サディスティックパーソナリティ障害。Sadistic personality disorder の略。
スーパー戦隊シリーズ および その関連作品
- 『特捜戦隊デカレンジャー』
- 作品上の組織:スペシャル・ポリス・デカレンジャー(Special Police Dekaranger、SPD)の英文略称。
- 『パワーレンジャー・S.P.D.』
- 上記作品(『特捜戦隊デカレンジャー』)の海外版作品の略称。および、作品上の組織:Space Patrol Deltaの略称。
- 『非公認戦隊アキバレンジャー』
- 主人公(赤木信夫)の働く「佐々木ポンポコデリバリー」の略称(上記作品(『特捜戦隊デカレンジャー』)のパロディ)。
注釈
SPD
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/05/25 07:33 UTC 版)
「ヘルベルト・ヴェーナー」の記事における「SPD」の解説
1946年にドイツに戻り、ハンブルクでドイツ社会民主党に加入した。ここでは党の新聞「ハンブルクのこだま」紙編集員として働いていた。そんな中早くもクルト・シューマッハー党首に認められた。1948年に党ハンブルク地区代表委員。翌年ドイツ連邦議会選挙に出馬して当選し、議会の全ドイツおよびベルリン問題委員会委員長に就任。1952年から1958年まで、欧州議会議員(加盟国議会議員との兼任)。1953年から党外交および全ドイツ問題委員会会員。1956年、連邦議会外交委員会副委員長。1957年、連邦議会の党院内副総務。翌年副党首に就任。ゴーデスベルク綱領の採択に尽力し、1959年にSPDはマルクス主義との訣別を宣言し、国民政党に脱皮した。1960年には連邦議会で演説し、SPDの外交政策を改め、親西側路線に大きく舵を切った。 1966年、大連立によるクルト・ゲオルク・キージンガー内閣が成立すると、全ドイツ問題相として入閣した。東ドイツからの政治亡命者希望者の身柄を金銭と引き換えで引き受ける「フライカウフ(自由買い)」を行う。また同年、従来SPDが反対してきた小選挙区制導入に賛成の意を表明し(1968年に党大会で採択)、ドイツキリスト教民主同盟(CDU)との連立交渉の駆け引きの道具にするなど、エーリッヒ・メンデと共に辣腕を発揮した。一方で1969年に選挙制度改革について「馬鹿馬鹿しかったことがもっと馬鹿馬鹿しくなるだけだ」と前言をすり替えるなど、策士としても知られた。
※この「SPD」の解説は、「ヘルベルト・ヴェーナー」の解説の一部です。
「SPD」を含む「ヘルベルト・ヴェーナー」の記事については、「ヘルベルト・ヴェーナー」の概要を参照ください。
固有名詞の分類
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