1945年2月の空襲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 08:00 UTC 版)
詳細は「ジャンボリー作戦」を参照 1945年(昭和20年)2月、硫黄島の戦いを間近に控えたアメリカ海軍第5艦隊司令長官のレイモンド・スプルーアンス大将は同作戦の牽制のため、マーク・ミッチャー中将指揮下の第58任務部隊を日本本土近海に派遣した。この東京および関東地方への作戦のついてスプルーアンスは各艦の無線およびレーダー使用を禁止し、日本側の索敵回避に重点を置くなど「奇襲」であることを基調とし、なおかつ攻撃開始を硫黄島への艦砲射撃の開始予定時間の直後と定めた。 ウルシー環礁の基地を出港した同任務部隊は硫黄島の東海上を遠巻きにして2月16日早朝に房総半島の沖合に到達すると、6時45分から数波にわたって艦載機を発艦させて、横須賀や館山や厚木や下溝などの関東地方の軍事施設および静岡県の軍事施設を攻撃した。一方、日本側は2月12日の時点で海軍軍令部が「15日から16日頃に本土来襲の算段なり」と判断するなど米機動部隊の動向を把握しており、警戒および迎撃態勢が整えられていた。 アメリカ側の報告では横須賀の追浜海軍飛行場へ向かった第1波の戦闘機隊は同飛行場に配備された20〜30機以上の軍用機に機銃掃射を加えたが戦果は確認できず、日本側の激しい対空砲火を受け3機が撃墜され搭乗員3人が死亡した。14時58分に発艦した戦闘機隊は攻撃目標へ向かう途中で日本側の戦闘機隊と遭遇し5機を撃墜、さらに地上からの迎撃を受けたが2機が損傷したが人的損害はなかったが。15時に発艦した戦闘機隊は東京湾上空と西側で日本側戦闘機隊と交戦し3機を撃墜、追浜海軍飛行場の滑走路にロケット弾を投下したが周辺で5機が被弾し3機が墜落、搭乗員3人が行方不明となった。また、三浦半島の沖合で米戦闘機隊の攻撃を受けて炎上中の5000トン級商船の救援に向かった特設駆潜艇「通海丸」が被弾した後に沈没し、乗組員31人が死亡した。 翌2月17日、ミッチャー中将は6時45分から艦載機を発艦させ、8波にわたって関東地方や東海地方の軍事施設や軍需工場を攻撃したが、天候の影響によりアメリカ側は十分な戦果を得ることは出来なかったという。横須賀海軍警備隊の報告によれば周辺に配備された高角砲および機銃による2日間の戦闘の戦果について撃墜36機(不確実2機)、撃破32機、『新横須賀市史』によれば17日の戦闘で横須賀海軍航空隊の戦闘機隊が19機を撃墜(不確実6機)する戦果を挙げたと記しているが、アメリカ側の報告とは開きが生じている。また、軍港周辺の大勝利山や緑山などの高地には高角砲、市内の高層建築物の屋上には機関銃や機銃の銃座が配備されていたことから市街地が機銃掃射を受けたが、アメリカ側の銃弾や日本側の高角砲の破片により数件の火災が発生した。さらに新市域の一部に焼夷弾が投下されたことや、特殊滑空機「桜花」の練習場として建設中の長井飛行場にも14発のロケット弾が投下されたことが記録されている。
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