1200年-1299年とは? わかりやすく解説

1200年-1299年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/22 06:03 UTC 版)

高麗年表」の記事における「1200年-1299年」の解説

年 高中国及び周辺国 高麗1206年 テムジンモンゴル統一 1213年 高宗 1218年 モンゴル帝国同盟 1219年 チンギス・カンジャラ剌)、カチン(何称)両名一軍とともに派遣し高麗モンゴル軍協力して契丹族黒契丹)を殲滅(江東城の勝利) 1225年 高麗送ったモンゴル使節ジョゴヨ(著古与)が殺害される事件。(鴨緑江事件モンゴル断交して対立する(→モンゴルの高麗侵攻)。 1227年 西夏蒙古滅ぼされる1231年 8月29日 蒙古(後の元)の侵入が始まる。(第1次高麗侵入モンゴル皇帝オゴデイ、サルタク・コルチ(撒里打火里赤)に命じ黒契丹鎮定時における協定履行求める軍を派遣する高麗人洪福源1500戸を率いてサルタクの軍に投降11月29日 蒙古開京に至る。王は降伏地方では抵抗が続く。(高麗史22)12月1日 蒙古講和。宋、金を夾攻することを約定する。 高麗各地モンゴル帝国使臣72からなる知事達魯花赤ダルガチ)を設置1232年 崔氏は国王連れて都を開城から江華島移し抵抗達魯花赤72全員殺害される事件 1233年 蒙古 金の首都開封攻略1234年 蒙古軍 第3次高麗侵入 金朝滅亡 1235年 蒙古軍、再び高麗へ第4次高麗侵入同年春、オゴデイ主催によるカラコルムでのクリルタイにおいて、バトゥ以下の皇子たちによるヨーロッパ遠征皇子クチュによる南宋遠征加え、タングタイ(唐古)による高麗遠征決議される。(『元史』巻2・太宗本紀太宗7年乙未条 ) 1236年 蒙古軍全羅道付近まで 1238年 蒙古軍東京(慶州)まで 蒙古軍第5次侵攻 1241年 高宗モンゴルとの講和請い、貢賦を納めることに同意するモンゴル側からカラコルム宮廷に赴き、オゴデイ面前謁し朝貢するよう要求されるも、旅中の困難を理由抗弁し代わりに永寧公綧を赴かせる。 1247年 高麗モンゴルへの貢納をやめる。 1253年 モンゴル皇帝モンケジョチ・カサル家の王族イェグ也古)らに高麗遠征命じる。(『元史』巻3・憲宗2年10月条) 1254年 蒙古軍第6次侵攻蒙古兵に捕らえられた者20万余り、殺された者数えきれず」イェグ高麗遠征軍司令の職を罷免され、ジャラルダイ(剌児帯)が征東元帥任じられる。(『元史』巻3・憲宗3年癸丑春正月条) 1256年 高麗モンケ服属使者を送る。 1258年 武臣金俊ら 親蒙古掲げ崔氏政権倒し蒙古降伏1259年 モンゴルクビライ政権)に服属高宗世子・倎(後の元宗)、南宋遠征中のモンケへの謁見求めて華南へ至るも、モンケ崩御にともない上都開平府へ北還中のクビライ謁し高麗国王位安堵を受ける。 元宗 1260年 5月13日皇帝クビライ高麗国王王倎(元宗)に詔諭を下して改め高麗国王位封じ高麗における俘民とその逃戸を帰させ、モンゴル軍による掠奪禁じさせる。(『元史』巻4・世祖本中統1年4月己亥条) 4月12日世祖クビライ上都開平府にてクリルタイ召集し即位 1263年 高麗日本人沿岸侵略禁圧要請 1268年 元との徹底抗戦主張する武臣林衍金俊暗殺実権の掌握元宗廃位となるが元の力で復位 クビライの命を受けた高麗使者起居舎人 潘阜クビライおよび元宗国書をもって大宰府来着蒙古南宋への攻撃開始 1270年 高麗慈悲嶺」以北広大な東寧路奪われる蒙古 西京(平壌)に東寧府設置崔氏武臣政権下の軍(左別抄・右別抄・神義軍解散命じられる拒否5月三別抄将軍の裴仲孫、夜別抄の盧永禧らは宗室の承化江温を推戴し江華島本拠独立6月三別抄政権西南珍島(全羅南道)に移る。 1271年 三別抄勢力 全羅南道全域慶尚南道一部掌握する6月 忠烈王 クビライ皇女忽都魯掲里迷失クトゥルク=ケルミシュ)と婚姻許諾を得る(元宗15年珍島三別抄 陥落 蒙古国号を「大元」と改める。 1272年 忠烈王 クビライ日本侵略提言軍船造船申し出る1273年 三別抄の乱を元の力で鎮圧 1274年 元 日侵略のため(元寇行中書省をおき、高麗戦艦大小九百艘を造船する。 10月文永の役 8月 忠烈王 1275年 耽羅国耽羅國軍民達魯花赤(da-ru-qas) 總管置かれる 1276年 通訳とその教育のために通文館を置く 1278年 辮髮胡服令。 1279年南宋を滅ぼす。 1280年 日本対す遠征元寇)を遂行する目的征東行省(忠烈王長官となる前期征東行省 )を創設 1281年 弘安の役 征東行省解散 高麗兵船対馬侵略する 1287年 元、高麗征東行省設立(後期征東行省)。高麗王を長官任命 1289年 哈丹(契丹)の寇により都を江華島に移す。 1291年 都を開城に戻す。契丹侵入 1297年 クビライの娘忽都魯掲里迷失死去。元との関係が壊れる。 1298年 忠烈王廃位忠宣王退位 元の王妃が趙妃を嫉み誣告(趙妃誣告事件忠烈王復位 忠宣王忠烈王

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