1200年-1299年
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年 高麗 中国及び周辺国 高麗王 1206年 テムジンがモンゴルを統一 1213年 高宗 1218年 モンゴル帝国と同盟 1219年 チンギス・カン、ジャラ(札剌)、カチン(何称)両名を一軍とともに派遣し、高麗、モンゴル軍と協力して、契丹族(黒契丹)を殲滅(江東城の勝利) 1225年 高麗に送ったモンゴルの使節ジョゴヨ(著古与)が殺害される事件。(鴨緑江事件)モンゴルと断交して対立する(→モンゴルの高麗侵攻)。 1227年 西夏、蒙古に滅ぼされる。 1231年 8月29日 蒙古(後の元)の侵入が始まる。(第1次高麗侵入)モンゴル皇帝オゴデイ、サルタク・コルチ(撒里打火里赤)に命じ黒契丹鎮定時における協定履行を求める軍を派遣する。 高麗人洪福源、1500戸を率いてサルタクの軍に投降。11月29日 蒙古、開京に至る。王は降伏。地方では抵抗が続く。(高麗史 巻22)12月1日 蒙古と講和。宋、金を夾攻することを約定する。 高麗各地にモンゴル帝国の使臣72人からなる知事(達魯花赤、ダルガチ)を設置。 1232年 崔氏は国王を連れて都を開城から江華島に移し抵抗。達魯花赤72人全員が殺害される事件 1233年 蒙古 金の首都開封を攻略。 1234年 蒙古軍 第3次高麗侵入 金朝滅亡 1235年 蒙古軍、再び高麗へ。第4次高麗侵入同年春、オゴデイ主催によるカラコルムでのクリルタイにおいて、バトゥ以下の皇子たちによるヨーロッパ遠征、皇子クチュによる南宋遠征に加え、タングタイ(唐古)による高麗遠征が決議される。(『元史』巻2・太宗本紀、太宗7年乙未条 ) 1236年 蒙古軍、全羅道付近まで 1238年 蒙古軍、東京(慶州)まで 蒙古軍、第5次侵攻 1241年 高宗、モンゴルとの講和を請い、貢賦を納めることに同意する。モンゴル側からカラコルムの宮廷に赴き、オゴデイの面前に謁して朝貢するよう要求されるも、旅中の困難を理由に抗弁し、代わりに永寧公綧を赴かせる。 1247年 高麗、モンゴルへの貢納をやめる。 1253年 モンゴル皇帝モンケ、ジョチ・カサル家の王族イェグ(也古)らに高麗遠征を命じる。(『元史』巻3・憲宗2年冬10月条) 1254年 蒙古軍、第6次侵攻「蒙古兵に捕らえられた者20万余り、殺された者数えきれず」イェグ、高麗遠征軍司令の職を罷免され、ジャラルダイ(札剌児帯)が征東元帥に任じられる。(『元史』巻3・憲宗3年癸丑春正月条) 1256年 高麗、モンケに服属の使者を送る。 1258年 武臣の金俊ら 親蒙古を掲げ、崔氏政権を倒し、蒙古へ降伏。 1259年 モンゴル(クビライ政権)に服属。高宗の世子・倎(後の元宗)、南宋遠征中のモンケへの謁見を求めて華南へ至るも、モンケの崩御にともない上都開平府へ北還中のクビライに謁し、高麗国王位の安堵を受ける。 元宗 1260年 5月13日、皇帝クビライ、高麗国王王倎(元宗)に詔諭を下して改めて高麗国王位に封じ、高麗における俘民とその逃戸を帰させ、モンゴル軍による掠奪を禁じさせる。(『元史』巻4・世祖本紀 中統1年夏4月己亥条) 4月12日、世祖クビライ、上都開平府にてクリルタイを召集して即位 1263年 高麗、日本人の沿岸侵略禁圧を要請 1268年 元との徹底抗戦を主張する武臣の林衍、金俊を暗殺、実権の掌握。元宗廃位となるが元の力で復位 クビライの命を受けた高麗の使者、起居舎人 潘阜がクビライおよび元宗の国書をもって大宰府へ来着蒙古、南宋への攻撃を開始 1270年 高麗 「慈悲嶺」以北の広大な東寧路を奪われる。蒙古 西京(平壌)に東寧府を設置崔氏武臣政権下の軍(左別抄・右別抄・神義軍)解散を命じられるも拒否。5月、三別抄将軍の裴仲孫、夜別抄の盧永禧らは宗室の承化江温を推戴し、江華島を本拠に独立。6月、三別抄政権は西南の珍島(全羅南道)に移る。 1271年 三別抄の勢力 全羅南道全域や慶尚南道の一部を掌握する。6月 忠烈王 クビライの皇女、忽都魯掲里迷失(クトゥルク=ケルミシュ)と婚姻の許諾を得る(元宗15年)珍島の三別抄 陥落 蒙古、国号を「大元」と改める。 1272年 忠烈王 クビライに日本侵略を提言。軍船の造船を申し出る。 1273年 三別抄の乱を元の力で鎮圧 1274年 元 日本侵略のため(元寇)行中書省をおき、高麗、戦艦大小九百艘を造船する。 10月文永の役 8月 忠烈王 1275年 耽羅国に耽羅國軍民都 達魯花赤(da-ru-qas) 總管が置かれる 1276年 通訳とその教育のために通文館を置く 1278年 辮髮・胡服令。 1279年 元 南宋を滅ぼす。 1280年 日本に対する遠征(元寇)を遂行する目的で征東行省(忠烈王が長官となる前期征東行省 )を創設 1281年 弘安の役 征東行省を解散 高麗の兵船、対馬を侵略する 1287年 元、高麗に征東行省を設立(後期征東行省)。高麗王を長官に任命 1289年 哈丹(契丹)の寇により都を江華島に移す。 1291年 都を開城に戻す。契丹の侵入 1297年 クビライの娘忽都魯掲里迷失死去。元との関係が壊れる。 1298年 忠烈王廃位忠宣王退位 元の王妃が趙妃を嫉み誣告(趙妃誣告事件)忠烈王復位 忠宣王忠烈王
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