集落形成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 02:52 UTC 版)
かつての瀬居島は塩飽諸島の1島で、江戸時代は幕府領であった。居住の歴史は万治2年(1659年頃)に、同じ塩飽諸島の本島泊り浦の宮本伝太夫が、畑高13石を開拓し、20人が入植した時点で始まった。瀬居島の沿海は瀬戸内有数のマダイやサワラの漁場であり、明徳年間からは鯛地漕網、文政年間からは鰆流瀬網の操業が始まった。豊かな漁場だったため、次第に備前や高松といった隣接する他領との紛争が絶えなくなった。しかし、寛保元年(1741年頃)の大坂町奉行の裁許によって、塩飽諸島における排他的な漁業権を獲得した。その後、漁業は一層盛んとなり、鯛網漁はこの島の名物となった。 この島が属する塩飽諸島の島民は、航海技術や造船技術など海に関する知識・技能が卓越していたため、歴史的に多くの人材を輩出してきた。記録に残る島原の乱における動員に始まり、万延元年(1860年頃)に勝海舟を艦長とする咸臨丸でアメリカ合衆国に渡った鉄砲方善四郎や、小笠原諸島開拓に徴用され幕命によるオランダ留学を経験した後、軍艦回春丸の艦長となった西浦集落の古川庄八などが、瀬居島の出身者である。 明治維新の後には県が設置されたものの、当町を含む塩飽諸島の所属は、幾度も変更された。具体的には、1868年6月14日から倉敷県、1870年から高知県、同年再び倉敷県、1871年から丸亀県、同年から香川県、1873年から名東県、同年再び香川県、1876年から愛媛県、1888年から香川県とめまぐるしい変遷を経た。
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