銅剣 (どうけん)
銅剣
主名称: | 銅剣 |
指定番号: | 535 |
枝番: | 00 |
指定年月日: | 2000.06.27(平成12.06.27) |
国宝重文区分: | 重要文化財 |
部門・種別: | 考古資料 |
ト書: | 両面に画像がある |
員数: | 1口 |
時代区分: | 弥生 |
年代: | |
検索年代: | |
解説文: | 本件は、高知県香美郡野市町兎田字八幡に所在する兎田【うさいだ】八幡宮に伝来する銅剣である。この銅剣は、文化十年(一八一三)武藤致和によって編著された『南路志【なんろし】』巻十二の兎田村の項にある「八幡 八幡山 社記云 籠物唐金剣一振」という記述にあたるものと考えられ、すでに江戸時代には出土し、兎田八幡宮に納められていたことがわかる。 この兎田八幡宮の南西一・七キロメートルには弥生時代前期末の遺跡として下分遠崎遺跡が知られており、その間に存在する丘陵から出土したものと推測される。 銅剣は細形銅剣に分類され、弥生時代前期末に編年されるものであるが、鉛同位対比の測定結果から朝鮮半島産の材料を用いたものと考えられることと、齟齬をきたさない。 この銅剣の翼部に描かれたシカ、鳥、カマキリ、カエルは、菱環鈕式・外縁付鈕式の銅鐸に描かれた画像と同様に半肉彫りで、しかも横からの視点で描くシカ、鳥、カマキリ、上からの視点で描くカエルを同一平面に描く手法が共通である。 現在画像をもつ銅剣は本件の他、愛媛県朝倉町朝倉下保田出土のものと、同じく愛媛県松山市一万市筋出土のものが知られているが、ともに平形銅剣で時期も異なり、しかも線描で単体を表現している。 画像をもつ銅鐸で最も古いものは、菱環鈕式の福井県春江町井向から出土した二号鐸(個人蔵)である。袈裟襷文内にシカ、鳥、カマキリ、カエルの他、トンボ、スッポンや脱穀と高床の住居を描いており、のちの銅鐸画像の原型を示すものである。 この井向二号鐸に描かれた画像のうち、本件に見られる画像には多くの共通性を指摘することができるが、製作時期からすると両者はほぼ相前後する時期に鋳造されたものであることから両者の関係が注目され、弥生時代における青銅器の生産や画像がもつ意義について考える際に不可欠であり、学術的価値はきわめて高い。 |
銅剣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/31 02:29 UTC 版)
銅剣(どうけん)は、青銅で造られた剣。鋳造技術により製作され、分布は世界的な広がりをもつ。
日本列島の銅剣
日本列島における銅剣は、弥生時代前期にあたる紀元前3世紀末から前2世紀初め頃、他の青銅製武器(戈・矛)とともに中国大陸より伝来したと考えられている[2]。伝来時の銅剣は細身で鋭い形態であるが、年代が降るに連れて大型化していく。日本考古学界では、細身の弥生時代前期のものは武器として実戦で使用され、大型化した弥生後期のものは祭祀具と考えられている[3]。
伝来後、日本列島でも青銅の鋳造技術が導入され、弥生時代を通じて製造されたが、弥生時代中期に入る紀元前1世紀代には新たに鉄製武器(鉄剣・鉄矛・鉄戈・鉄鏃)が伝来した。中国大陸や朝鮮半島と違って、鉄製武器到来の時期的な差が少ないため、銅剣が戦場で使用されていた時期は比較的短いとされる。また日本列島での生産開始は鉄のほうが早かった[4]。そのため鉄剣が主流になってからは、銅剣は次第に祭祀具と化していったと考えられている[3]。
弥生時代の祭祀用青銅器としては銅鐸が著名であるが、これが近畿地方から多く発見されるのに対し、銅剣は九州地方、中国・四国地方などに特に濃密に分布する。儀礼などで使用されるにつれ大型化したものと考えられ、形態も徐々に変化した。現在では、製作された年代により3種類に分けて、前期は「細形」、中期が「中細形」、後期が「平形」と分類・編年されている。種類としては、有柄銅剣(ゆうへいどうけん)や金色銅剣(こんじきどうけん)などもある。
2013年(平成25年)に滋賀県高島市の上御殿遺跡で出土した双環柄頭短剣は、中国華北や内モンゴルに分布するオルドス式銅剣に似ており、朝鮮半島での出土例が無いことから、中国大陸から日本海ルートで流入した可能性がある[5]。
主な出土遺跡
島根県出雲市にある荒神谷遺跡では史上最多となる358本の銅剣が検出された。当遺跡から検出された銅剣は祭祀用のものと考えられている。
脚注
- ^ 大分市教育委員会文化財課. “大分市生涯学習情報まなびのガイド-浜遺跡-”. 大分市教育委員会社会教育課. 2023年3月15日閲覧。
- ^ 松木 2001, pp. 26–32.
- ^ a b 松木 2001, pp. 49–51.
- ^ 平尾良光,「古代日本の青銅器の原料産地を訪ねて」『計測と制御』28巻8号 1989年 p.681-688,doi:10.11499/sicejl1962.28.681。
- ^ 滋賀で国内初の銅剣鋳型出土 弥生期に中国オルドス式 2013/08/08【共同通信】
参考文献
- 松木武彦『人はなぜ戦うのか-考古学から見た戦争-』講談社〈講談社選書メチエ213〉、2001年5月10日。ISBN 4122064589。
関連項目
銅剣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 03:41 UTC 版)
丘陵の斜面に作られた上下2段の加工段のうち下段に、刃を起こした状態で4列に並べられて埋められていた。358本の銅剣は、全て中細形c類と呼ばれるもので、長さ50cm前後、重さ500gあまりと大きさもほぼ同じである。弥生時代中期後半に製作されたとみられている。この形式の銅剣の分布状況から出雲で製作された可能性が高いが、鋳型が発見されていないため決定的ではない。いずれにしろ、形式が単一なので同一の地域で作られたことは確かである。また、このうち344本の茎には、鋳造後にタガネ状の工具で×印を刻まれている。このような印は、現在までのところこれらと加茂岩倉遺跡出土銅鐸でしか確認されておらず、両遺跡の関連性がうかがえる。 当時の大和朝廷が「イズモ」を特別な地域であると認識していた事が、記紀の記述にもあり、また神話のなかの三分の一を出雲神話で占める、といったことからも証明される形となっている。更に、時代が下って編纂された「式内宮」として認められた神社の、出雲地方での総数と出土した銅剣の本数との奇妙な一致があげられる。 当初は、農道を造るために、神庭と呼ばれる場所であることから、とりあえず発掘調査をすることになり、最初に掘ったトレンチから銅剣が出てきた。担当者は連絡に奔走し、同時に発掘を進めていった。当初は百本位だろうと考えられたが、次々に出土し、最終的に358本という数に達した。それまでに全国で発掘された銅剣の総数を超える数の銅剣が発掘された事は当時のマスコミを興奮のるつぼに放り込んだ形となった。 これらの銅剣が発掘された1985年(昭和60年)7月13日の担当者の話では、梅雨のさなか、テントを張って毎日、夜も欠かさず見張りを続け、現場から帰ってきたその日の当直者は顔が変形するほど蚊にさされたというエピソードもある。 出来事 島根県立古代出雲歴史博物館に展示していた同遺跡の銅剣類のうちの1本について、展示台にぶつけて刃の中央に約4センチの亀裂が入っていることが判った。
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