蒸気機関試作
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 03:50 UTC 版)
島津斉彬は蒸気船にも関心を抱き、1848年(嘉永元年)にオランダ人フェルダムの技術書(1837年刊行)を入手、蘭学者の箕作阮甫へと翻訳を依頼した。同書は1849年9-10月頃(嘉永2年9月)に『水蒸船略説』として仕上がった。なお以前にも蒸気機関・蒸気船の存在は日本にも伝わりつつあり、すでに1843年(天保14年)には幕府がオランダ商館長に蒸気船の長崎建造を照会するなどしていた。 1851年(嘉永4年)、藩主となった斉彬は、『水蒸船略説』を参考にした蒸気機関の試作を命じた。同年春には江戸の薩摩藩邸、同年冬には薩摩本国においても試作品の製造が始まった。この試作が難航するうちに黒船来航を迎えて蒸気船の威力が広く実感されると、蒸気船導入の要請はさらに強まった。幕府はオランダから日本最初の蒸気船「観光丸」の寄贈を受けて長崎海軍伝習を開始したが、薩摩藩も長崎に人員を派遣して「観光丸」や小型蒸気艇の見学を行い、蒸気機関試作の参考とした。 苦難の末に江戸製の試作蒸気機関はなんとか完成にこぎつけ、1855年8月15日(安政2年7月3日)に藩邸内で諸大名を招いての公開試運転が行われた。さらに越通船へ搭載しての試験も行われることになり、翌月までに越通船のうちの1隻へと試作機関が装着された。推進方式は外輪船方式であった。当初は特別な船名は無かったが、後に「雲行丸」と命名された。
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