第二次中間経路
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/16 02:26 UTC 版)
「アメリカ合衆国の奴隷制度の歴史」の記事における「第二次中間経路」の解説
アメリカ合衆国が西に拡がるに連れて、綿花の栽培も西に拡がって行き、歴史家のピーター・コルチンは「既存の家族を引き裂いて、彼らが知っている人や物とは遠く離れた場所に移動させた」この移民は大西洋奴隷貿易の「多くの恐怖を(程度は低いかもしれないが)思い出させた」と書いた。同じく歴史家のアイラ・バーリンはこの移動を第二次中間経路と呼んだ。バーリンは、このことをアメリカ独立戦争と南北戦争の間で奴隷の生活における「中間的出来事」として特徴付け、奴隷達が自発的に動いたのかあるいは単純に彼らやその家族が意に反して移動させられる恐れの中で生きていたのであれば、「大量移送が奴隷であれ自由黒人であれ、黒人の意識に負担となっていた」と書いた。 完全な統計ではないが、1790年から1860年の間に100万人の奴隷が西部に移動したと見積もられている。奴隷の大半はメリーランド州、バージニア州および両カロライナ州から移住した。最初の目的地はケンタッキー州とテネシー州であったが、1810年以降はジョージア州、アラバマ州、ミシシッピ州、ルイジアナ州およびテキサス州が多くを受け入れた。1830年代におよそ30万人が移住し、アラバマ州とミシシッピ州はそれぞれ10万人を受け入れた。1810年から1860年の間の10年間毎に少なくとも10万人の奴隷が生まれた土地を離れた。南北戦争前の最後の10年間、25万人が移住した。マイケル・タッドマンは1989年の著書『投機家と奴隷:古南部の奴隷所有者、貿易業者および奴隷』で、移住した奴隷の60ないし70%は奴隷売買の結果だったとしている。1820年にアッパー・サウスにいた子供は30%の確率で1860年代までに売られた。 奴隷貿易業者は西部に移住した奴隷の大半に責任があった。極少数はその家族やそれまでの所有者と共に移住した。奴隷貿易業者は奴隷の家族をそのまま購入することや運ぶことではあまり利益がなかったが、運ばれる男女と同数の「自己繁殖する労働力」を生むことには利益があった。バーリンは、「国内の奴隷貿易はプランテーション以外では南部で最大の事業になった。おそらく新しい輸送方法、財務および宣伝力を採用することでも最も進歩していた」と書いた。奴隷貿易産業は「最上の働き手、元気のいい若者、繁殖用の女および上等の女の子」といった特有の言葉を発展させ一般に使われるようになった。州間奴隷貿易の拡大は、売りに出される奴隷の価格が上昇するに連れて、「一度落ち込んだ海岸州の経済的復活」に貢献した。 貿易業者の中には、ノーフォークからニューオーリンズを通常経路としてその「動産」を船で運ぶ者もいたが、大半の奴隷は徒歩で移動することを強制された。通常の移動経路が確立され、奴隷が一時的に利用するための宿泊設備、囲い地および倉庫のネットワークが役に立った。移動が進むに連れてある奴隷は売られ、また新しい者が購入された。バーリンは「全体的に、奴隷貿易は中継点と地域の中心があり、横道や巡回路もあって、南部社会の隅々まで届けることができた。黒人であろうと白人であろうと南部の者達はほとんど関係しなかった」と結論づけた。 行進中の奴隷の死亡率は大西洋奴隷貿易の当時に比べれば遙かに小さかったが、通常の死亡率よりは高かった。バーリンは次のように要約した。 …第二次中間経路は他にないくらい寂しく、衰弱させ、また気を落ち込ませるものだった。南部に向かう行進の陰気な様子を観察した者は「男も女も子供達までも葬式に向かう列に似ている」と表現した。実際に行進中に死に行く男や女、あるいは売られる者、再販される者がいて、奴隷は商品として扱われるだけでなく、あらゆる人間的な感情からも疎外されていた。第二次中間経路は奴隷達に対するのと同様に貿易業者にとっても殺人や暴力で危険なものとなった。それが男達を鎖でしっかりと繋ぎ防御を図った理由であった。南部に向かう奴隷の隊列は、その祖先を西方に運んだ奴隷船に似て、動く砦になり、そのような状況下になれば反抗するよりも戦う方が通常であった。奴隷達は重武装の権力者に直面するよりも、夜の闇に紛れ北極星に導かれて寓話の自由の土地を目指す方が容易であり、危険も少なかった。 — Berlin pg. 172-173 一旦移動が終わると、奴隷達は東部で経験したのとは全く異なる辺境の生活に直面した。樹木を取り払い、荒れ地に穀物を育て始めることは過酷な重労働であった。不適切な栄養、悪い水、さらに旅や仕事の疲れで消耗した体力の組み合わせは新しく到着したばかりの奴隷を弱らせ損失を生んだ。河床に近い新しいプランテーションに適した土地は蚊に襲われたり、他の自然環境の猛威に曝され、以前の土地では限られた免疫力しかなかった奴隷達の生存を脅かした。荒れ地からプランテーションを切り開いた最初の数年間の死亡率は凄まじいものがあり、農園主によっては自分の奴隷を所有するよりも、可能ならば奴隷を借りて使った方が良いと考える者もいた。 辺境における過酷な環境のために奴隷の反抗が増え、奴隷所有者や監督者は以前にも増して暴力に頼るようになった。奴隷の多くは綿花畑の経験がなく、新しい生活に要求される「日の出から日没までの集団労働」に慣れていなかった。奴隷達は東部でタバコや小麦を栽培していた時よりも過酷な労働に駆り出された。奴隷達はまた自分達の消費のためあるいは交易のために、家に戻って家畜を飼ったり、野菜を育てたりすることでその生活水準を上げる時間も機会も少なかった。 ルイジアナ州では主要な作物が綿花ではなく砂糖であった。1810年から1830年の間、奴隷の数は1万人以下のレベルから4万2千人以上にまで増加した。ニューオーリンズは国中でも重要な奴隷のための港となり、1840年代までには国でも最大の奴隷市場ができた。サトウキビを取り扱うことは綿花の栽培よりも体力を要し、購入される奴隷の3分の2を占めた若い男性が好まれた。若くて未婚の男性奴隷を集団で扱うことについて、その所有者は「特別野蛮な」暴力に頼る機会が増えた。
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