栗林の最期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/29 01:03 UTC 版)
3月17日以降、栗林は総攻撃の機会をうかがっていた。既に生存者の殆どが、守備隊の命運は尽きており、待っているのは自滅のときの訪れであって、そうであれば最後の突撃をなるべく早く行うべきと考えていたが、栗林は死を焦る参謀や指揮官らに「今、しばらく、様子を見たい」として安易な突撃を許さなかった。その指示を聞いた参謀らは、最後まで作戦を考える栗林の戦意と気力に大きな感銘を受けたという。アメリカ軍は18日から、艦砲射撃や空爆を中止し、損害の大きかった海兵隊を硫黄島から次第に撤退させており、1個連隊程度の戦力を残して、戦車と迫撃砲での攻撃を主として近接戦闘をなるべく避けるように作戦変更していた。栗林は冷静にアメリカ軍の作戦変更を見極めて、警戒が緩んできた3月24日に攻撃の機が熟したと判断すると、25日夜間の総攻撃開始を決定した。この総攻撃も、今まで栗林が徹底して禁止してきたバンザイ突撃ではなく、緻密に指揮された周到な攻撃であった。栗林は階級章を外すと、軍刀などの所持品から名前を消して白襷を着用し、25日の深夜に、今まで栗林に従ってきた師団司令部附大須賀應陸軍少将、歩兵第145連隊連隊長池田益雄陸軍大佐、参謀長高石正陸軍大佐や海軍第27航空戦隊司令官市丸利之助海軍少将と共に、攻撃隊400人の先頭に立って司令部の半地下壕を出て、元山・千鳥飛行場方向に向けて前進を開始した。 翌3月26日午前5時15分、栗林の指揮する攻撃隊は西部落南方の海岸で、アメリカ陸軍航空隊の第7戦闘機集団と第5工兵大隊が就寝している露営地に接触し攻撃を開始した。攻撃隊は日本軍の兵器のほかに、アメリカ軍から鹵獲したバズーカや自動小銃などを装備しており非常に重武装で、太平洋戦争の島嶼戦で繰り返された貧弱な装備でのバンザイ突撃とは一線を画した秩序だった攻撃であり、攻撃を受けたアメリカ軍も日本軍部隊がよく組織されているものと感じ、それは栗林の戦術的な規律によるものと評価している。攻撃隊の周到な攻撃によってアメリカ軍は大混乱に陥り、多数の戦闘機パイロットが殺傷されたが、その後海兵隊の増援も到着し、3時間の激戦によって戦闘機パイロットら44人が戦死、88人が負傷し、海兵隊員も9人が戦死、31人が負傷するという大損害を被った。その後、栗林は部隊を元山方面に転戦しようとしたが、敵迫撃砲弾の破片を大腿部に受けて負傷し、司令部付き曹長に背負われながら前線から避退したが進退窮まり、最後に「屍は敵に渡してはいけない」と言い残して、近くの洞窟で自決した。満53歳没。 ただし、栗林の最期については、直接見た者は生存していないことから諸説ある。最後の総攻撃の数少ない生還者である通信兵小田静夫曹長の証言によれば、栗林は千鳥飛行場に天皇陛下万歳三唱して斬りこんだが、参謀長の高石か参謀の中根に自分を射殺するよう命じ、高石か中根は栗林を射殺したのちに自分も拳銃で自決したという。しかし、小田は実際には栗林の最期を見てはおらずこれは推測である。他の生還者である歩兵第145連隊の大山純軍曹によれば、前進途中の千鳥部落付近で敵の砲火を浴び、部隊は散開状態となったが、大山はそのとき栗林の近くにおり、栗林が「狙撃を出して攻撃せんか」と命令したのを聞いている。大山はその場で機関銃弾を受けて負傷し栗林とはぐれてしまったが、戦闘後に戦闘指揮所に戻ると、栗林が負傷し、出血多量で絶命したため、遺体を参謀長の高石が近くの木の根元の弾痕に埋葬したという話を聞いている。他にも、攻撃中にアメリカ軍の155㎜砲の直撃を受けて爆死し遺体が四散したとの推察もある。 最後の総攻撃後に、日本兵の遺体262人が残され、18人が捕虜となった。海兵隊は栗林に敬意を表し遺体を見つけようとしたが、結局見つけることはできなかった。アメリカ海兵隊は公式報告書で栗林による最後の攻撃を以下の様に記録している。 3月26日に栗林と他の高級将校が日本軍の最後の攻撃を主導したという報告があった。この攻撃はバンザイ突撃ではなく、最大の混乱と破壊を生み出すことを目的とした優秀な計画であった。午前5時15分、200−300人の日本兵が島の西側に沿って北から下り、西部の海岸の近くで海兵隊と陸軍の露営地を攻撃した。混乱した戦いは3時間にも及び、第7戦闘機集団の司令部が大打撃を被ったが、混乱から立ち直って反撃を開始し、第5工兵大隊は急いで戦闘ラインを形成して敵の攻撃を食い止めた。日本軍の部隊は、日本とアメリカの両方の武器で十分に武装しており、40人が軍刀を帯びていたので、高級将校が高い割合を占めることを示していたが、遺体や書類を確認したところ栗林を見つけることはできなかった。 栗林の最期に関する異説としては、大野芳が、第109師団父島派遣司令部の参謀であった堀江芳孝少佐の手記から、栗林が戦闘中にノイローゼとなり、アメリカ軍に降伏しようとして参謀に斬殺されたという説を唱えたことがあった。しかし梯久美子の調査により、堀江が硫黄島で栗林の下で勤務したのは数日に過ぎず、栗林の最期についても伝聞であり、その情報源とされた小元久米治少佐が否定していたことが判明、戦史叢書の編集者も堀江の手記の栗林の最期の記述については信ぴょう性が薄いと判断し、戦史叢書の記述に採用していない。
※この「栗林の最期」の解説は、「栗林忠道」の解説の一部です。
「栗林の最期」を含む「栗林忠道」の記事については、「栗林忠道」の概要を参照ください。
- 栗林の最期のページへのリンク