とうこうじ 【東光寺】
東光寺
名称: | 東光寺 |
ふりがな: | とうこうじ |
名称(棟): | 大雄宝殿 |
名称(ふりがな): | だいゆうほうでん |
番号: | 1635 |
種別1: | 近世以前/寺院 |
国宝重文区分: | 重要文化財 |
指定年月日: | 1966.06.11(昭和41.06.11) |
員数(数): | 1 |
員数(単位): | 棟 |
代表都道府県: | 山口県 |
都道府県: | 山口県萩市大字椿東 |
所有者名: | |
指定基準: | |
管理団体名: | |
管理団体住所: | |
管理団体指定年月日: | |
構造形式: | 桁行正面五間、背面三間、梁間四間、一重もこし付、入母屋造、本瓦葺 |
時代区分: | 江戸中期 |
年代: | 元禄11(1698) |
解説文: | 東光寺は元禄年間萩藩主毛利家の創立で、裏には藩主の廟所がある。 大雄宝殿、鐘楼、総門は元禄創立の頃のものであり、三門は文化九年(一八一二)に造られた。黄檗宗が各地にひろまった時期の伽藍としては、いちばんととのったものである。 |
東光寺
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/24 17:52 UTC 版)
曹洞宗曹洞宗約15000寺のうち十指に入る北関東の名刹 である大宮山東光寺は、もとは大宮黒塚(氷川神社の東側、現・産業道路脇)にあって、天台宗に属していた。徳川家光の頃、中山道の整備に伴い現在地に移されている。 寺伝によれば平安時代末期、武蔵坊弁慶の師匠とされる京・鞍馬寺の東光坊祐慶(宥慶) が黒塚の鬼婆(おにばば)を法力をもって退散させ、鬼婆に殺された人々を葬るために庵を結んだことを起縁としている。史実としては、鎌倉時代に梁室元棟禅師がこの地に来錫(らいしゃく)して開山し、曹洞宗寺院に改めたとされている。なお、ここに見る「黒塚の鬼婆」というのは福島県の安達太郎山に伝わる「安達ヶ原(あだちがはら)の鬼婆」こと「黒塚の鬼婆」と同一の怪異者である。「安達ヶ原」は陸奥国の話であるが、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}大宮の堀之内を昔「足立ヶ原(あだちがはら)」と呼んでいたことから、混同が起こったらしい。[要出典]ただし、この種の伝承は日本各地に存在するのであり、いずれが本家・本元と言えるようなものではない。 東光坊祐慶が足立ヶ原黒塚の鬼婆を呪伏した際の護身仏と伝えられる、1寸8分の金銅薬師如来像を本尊とする。萬霊塔、庚申塔(延宝8年〈1680年〉)あり。 また、東光寺は、中山道を往還する文人墨客 が足を留めた所でもあり、漢学者・上山寿山や先述の漫画家・北澤楽天、大宮市発展の礎となった駅の誘致に尽力した白井助七、といった名誉市民の墓碑もある。
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