そうとう‐しゅう〔サウトウ‐〕【曹▽洞宗】
曹洞宗
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曹洞宗(そうとうしゅう)は、中国の禅宗五家(曹洞、臨済、潙仰、雲門、法眼)の1つで、中国禅宗の祖である達磨(5世紀後半 - 6世紀前半)から数えて6代目の南宗禅の祖・曹渓宝林寺の慧能(638年 - 713年)の弟子の1人である青原行思(? - 740年)から、石頭希遷(700年 - 790年、石頭宗)、薬山惟儼(745年 - 828年)、雲巌曇晟(782年 - 841年)と4代下った洞山良价(807年 - 869年)によって創宗された。
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曹洞宗
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詳細は「中国における曹洞宗」を参照 晩唐の洞山良价を祖とする。良价、曹山本寂の系統は、五代十国の荊南や南唐に宗勢を張ったが、全体的には余り宗勢は振るわなかった。本寂門下の曹山慧霞、雲居道膺門下の同安道丕、疎山匡仁門下の護国守澄、青林師虔門下の石門献蘊らの活躍が見られる程度である。 北宋代になっても、余り宗勢は振るわなかったが、投子義青が出て中興を果たした。その宗風は、芙蓉道楷、丹霞子淳に継承された。道楷は、徽宗皇帝からの紫衣と師号の下賜を拒絶して、淄州(山東省)に流罪となり、災い転じて福となり、それが華北に曹洞宗が拡大する契機となった。 南宋代には、子淳の下から宏智正覚、真歇清了が出て、「黙照禅」と呼ばれる宗風を維持したが、その宗勢は、臨済宗には遠く及ばなかった。なお、清了門下の天童如浄が、入宋した道元の師である。正覚の門下からは、『六牛図』を著した自得慧暉が出た。慧暉の系統が、その後の曹洞宗を支えることとなった。 河北に教勢を張った鹿門自覚の系統からは、金代になって、万松行秀が出現し、大いに教化を振るうこととなる。行秀は、林泉従倫や雪庭福裕、耶律楚材らの多くの優れた門弟子を育て、章宗の尊崇を受けた。福裕は、元朝において、道教の全真教の道士、李志常と論争して勝利を収め、嵩山少林寺に住して教勢を張った。以後、少林寺は、華北における曹洞宗の本拠となり、明の後半には、「曹洞正宗」を名乗ることとなった。 元の高峰原妙は、その特色を、「細密」という言葉で表現している。
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