最期について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 14:01 UTC 版)
韓国では、李舜臣は露梁海戦において「大敗した日本軍を追撃中に」「流れ弾に当たって」戦死したと一般に信じられており、日本の一部書籍においても、そのまま引用しているものが見受けられるが「流れ弾」については文献の裏づけはない。「追撃」については朝鮮側の史料である柳成龍『懲毖録』によるもので、李舜臣の死のことを「李舜臣は日本軍を大いに撃破し、これを追撃している最中に鉄砲の弾丸で戦死した」と記している。 一方で同じく朝鮮側史料である『乱中雑録』には、日本水軍と戦闘になった後、朝鮮水軍は主戦場であった海峡口から見て南西の観音浦(海戦前に朝鮮水軍が潜んでいた湾)へと一時後退しており、また李舜臣は日本船の船尾に伏せた兵の一斉射撃により撃ち倒されたと記されている。 『明史』では「鄧子龍の救援に赴き、死亡した」とのみ記されている。日本側文献『征韓録』によれば、「小船で先出してきた鄧子龍が従卒200余兵とともに討ち取られるのを救援するために進出したところを、和兵に囲まれ船を乗っ取られた」とのみ記し、死に至る詳細については残されていない。 なお、韓国では英雄化が過ぎるあまり、日本軍撤退後は自分が不要な存在となり、以前と同じく不当逮捕されて死罪とされることを見越して、自ら華々しい死に場所を求めたという説や、戦争を生き延びて隠遁生活を送って戦後に死亡したという説が唱えられることがあるが、肝心の李舜臣本人は死の数日前から日記を書くのを止めてしまっていることもあり(これはこれで死を覚悟したと受け取れるが、少なくとも現存する部分にはこの時点で死ぬつもりだったということを示す記述はない)、根拠となる史料は皆無である。
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