放浪生活
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 14:25 UTC 版)
1908年2月、妹パウラを異母姉アンゲラの嫁いだラウバル家に預けて再び首都ウィーンに舞い戻ると今度は生活拠点も移し、シュトゥンペル街に下宿先を借りた。程なくして音楽学校に合格したクビツェクがウィーンへやってくると、シュトゥンペルの下宿先で共同生活を送るようになった。ウィーンの裏通りにある下宿先は月20クローネの2人部屋で、ゆったりとした生活スペースにクビツェクが練習用に借りたグランドピアノと2つのベッドが置かれていた。朝に学校に向かうクビツェクに対してヒトラーは部屋で寝ており、帰ってきたクビツェクがピアノの練習する時間帯になると図書館や公園に出かけていった。時に昔のように2人で美術館や街の散策に出かけると、美術上の知識や持論を延々と語っていた。クビツェクが音楽学校の休暇でリンツに帰った後も滞在を続け、手紙のやり取りをしている。 すでにヒトラーは父からの遺産分与700クローネをある程度使用しており、また母親の葬儀費用などで370クローネを支払っているが、母からは父の遺産全額の3000クローネが残されたし、また妹パウラとヒトラーが24歳になるか就業するまでは孤児保護の恩給として月50クローネの受給もオーストリア・ハンガリー政府から認められた。ヴェルナー・マーザーとフランツ・イェッツインガーは、更にクララの叔母であるワルブルガ・ロメダーの遺産の一部、最低でも数百クローネがクララを通じて入ってきていたと指摘している。孤児恩給の半額は妹パウラを引き取った義姉アンゲラに養育費として渡されたが、10代の青年としては十分過ぎる程の遺産と当面の生活費が残されたのであり『わが闘争』にあるような無一文でウィーンにやってきたような描写とは異なる。またシュトラールは「遺産を受け取り、労働が可能で、かつ就学もしていないヒトラーの身の上を鑑みればパウラが恩給の全額を受け取る権利があったにもかかわらず、妹や後見人に無断で勝手に孤児恩給の申請書を出すなど策を巡らし、学校に通っていた妹から半分恩給を奪い取っている」と指摘している。 1908年末、この年にもアカデミーを受験したが、再び失敗した。2度目の試験では実技試験にすら受からず、むしろ合格は遠ざかっていた。同年9月、クビツェクの前からヒトラーは突然姿を消した。これは入試に失敗したことを知られたくなかったためと、徴兵忌避のためとであった。ウィーンに戻ったクビツェクの側も特に行方を捜すことはなかった。ヒトラーはたびたび住居を変え、1909年11月末頃には住所不定無職の人物として浮浪者収容所に入り、次いでメルデマン街にある独身者用の公営寄宿舎に移り住んだ。経済上のことというよりは、20歳から始まる徴兵義務を逃れるためであったと見られている(兵役逃れ)。この寄宿舎は休憩室や読書室を備え、就寝室は個室になっており、食事も安く、正業を持っているものも一時的に利用することがある施設であった。ヒトラーはこの頃絵葉書や版画の模写をおこない、インテリ層や商人などに絵画を売ることもあった。売り込みはラインホルト・ハーニッシュ(ドイツ語版)が行い、売上は折半していた。 1911年、姉アンゲラから孤児恩給全額を妹パウラに譲るようにリンツ地区裁判所で訴訟を起こされた。この背景には叔母ハンニからヒトラーが可愛がられており、遺産となる財産のほとんどをヒトラーの「芸術活動」に援助していたことに、夫ラウバルの死後も妹パウラを養い女子実科中等学校にも通わせていたアンゲラが憤慨したためである。ハンニがヒトラーに与えた財産がどの程度だったのは定かではないが、ハンニの死後その預金3800クローネが引き出されたにもかかわらず、ハンニの実妹は遺産を相続していないため、少なくとも2000クローネ程度は援助されていたと見られている。仮に今までの生活で父母の遺産を使い果たし、孤児恩給を失ったとしても、今度は叔母ハンニの財産でまだ数年は「寝て暮らせる」生活であった。また遺産を取り崩しながらの生活ながら自作の絵葉書や風景画を売ることで小額の生活費は稼いでいた。ヒトラー自身も『我が闘争』の中で「ささやかな素描家兼水彩画家として独立した生活を送っていた」と記述しており、裁判において「自分で生活できる」と証言し、孤児恩給の放棄に同意した。 この頃ヒトラーは食費を切り詰めてでも歌劇場に通うほどリヒャルト・ワーグナーに心酔していたとされる。また暇な時に図書館から多くの本を借りて、歴史・科学などに関して豊富な、しかし偏った知識を得ていった。その中にはアルテュール・ド・ゴビノーやヒューストン・チェンバレンらが提起した人種理論や反ユダヤ主義なども含まれていた。キリスト教社会党を指導していたカール・ルエーガー(後にウィーン市長)や汎ゲルマン主義に基づく民族主義政治運動を率いていたゲオルク・フォン・シェーネラーなどにも影響を受け、彼らが往々に唱えていた民族主義・社会思想・反ユダヤ主義も後のヒトラーの政治思想に影響を与えたといわれる。この時代にヒトラーの思想が固まっていったと思われているが、仮にそうだとしても、ヒトラーは少なくとも青年時代には政治思想に熱意を注いではいなかった。1913年の頃のヒトラーはイエズス会や共産主義を批判していたが、反ユダヤ主義的な発言の記録はない。ヒトラーは絵画をユダヤ人画商に好んで売り、ユダヤ人は頭がよく協力しあうと称賛することもあったし、ユダヤ系画商との夕食会に参加するなど親睦も結んでいた。一方で、ユダヤ人種は体臭が違うし、ユダヤの血はテロに走りやすいとも述べていた。またクビツェクは「リンツにいた頃から反ユダヤ主義者だった」と述べている。
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