後三国時代とは? わかりやすく解説

後三国時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/24 04:01 UTC 版)

後三国時代の勢力図

朝鮮の歴史
考古学 朝鮮の旧石器時代朝鮮語版
櫛目文土器時代 8000 BC-1500 BC
無文土器時代 1500 BC-300 BC
伝説 檀君朝鮮
古朝鮮 箕子朝鮮
辰国 衛氏朝鮮
原三国 辰韓 弁韓 漢四郡
馬韓 帯方郡 楽浪郡

三国 伽耶
42-
562
百済
高句麗
新羅
南北国 熊津都督府安東都護府
統一新羅
鶏林州都督府
676-892
安東都護府

668-756
渤海
698
-926
後三国 新羅
-935

百済

892
-936
後高句麗
901
-918
女真
統一
王朝
高麗 918-
遼陽行省
東寧双城耽羅
元朝
高麗 1356-1392
李氏朝鮮 1392-1897
大韓帝国 1897-1910
近代 日本統治時代の朝鮮 1910-1945
現代 朝鮮人民共和国 1945
連合軍軍政期 1945-1948
アメリカ占領区 ソビエト占領区
北朝鮮人民委員会
大韓民国
1948-
朝鮮民主主義
人民共和国

1948-
Portal:朝鮮

後三国時代(ごさんごくじだい、892年 - 936年)は、朝鮮の歴史の時代区分の一つ。

概要

892年に農民の甄萱が挙兵し、新羅王族の弓裔泰封を建国することによって弱体化していた新羅が分裂してから、936年高麗朝鮮半島を再統一するまでの期間を指す。

歴史

新羅では景徳王の子の恵恭王が即位するが、この頃には王都内での反乱が頻発しており、780年には恵恭王や妃などが殺されて武烈王系の血筋が断絶した。王位簒奪は続き、宮廷の中で内紛が広げられている中、王位争奪戦に敗れた王族の中には熊川州で独立した金憲昌や海上勢力であった張保皐など地方で勢力を持つものが現れ、中央の王位争奪にも介入した。これらは中軍などによって鎮圧されるが、地方での農民蜂起など、新羅王朝の統治能力は弱体化していた。

9世紀中盤に入ると、これらの反乱が頻繁に発生する様になり、それは地方にも波及していく。地力をつけていた地方の豪族達が反乱を起こし、将軍・城主などと称し、新羅政権から離脱していった。その中で、甄萱北原朝鮮語版梁吉朝鮮語版、その部下の弓裔らが有力な勢力であった。

甄萱は尚州の農民出身で、西南海で軍功をたてて頭角をあらわした。完山(今の全州)を本拠にして、892年に挙兵、武珍州(今の光州)を襲撃し独立した。さらに周辺の豪族達を糾合し勢力を拡大し、900年に「後百済王」を名乗って南西部に「後百済」を建てた。

弓裔は新羅王族の出身で、891年に挙兵して新羅に反旗を翻し、梁吉の元で江原道など各地で軍功をあげる。898年に松嶽(後の開城)に都をおいて北部一帯に「高句麗」(後高句麗)を建国、901年には梁吉を倒して自らを王と称し、独自の年号や官制を定めた。後高句麗は904年に「摩震」、911年に「泰封」と国号を改めている。こうして、新羅・後百済・泰封の三国が鼎立することとなったが、弓裔の下にいた松嶽の商人出身で水軍の将であった王建は、そのもとで武勲を建て、918年に弓裔を滅ぼし、開城を都にして新たな「高麗」を建国、自らを王(太祖)と称した。王建は、地方豪族をまとめ上げて地力を蓄え、935年に新羅を併合、936年に後百済を滅ぼし、高麗は朝鮮半島を再統一する。

大韓帝国と後三国との関係

李氏朝鮮第26代国王高宗は、李氏朝鮮冊封体制から離脱するにあたり、以下の詔を出した。

奉天承運皇帝詔曰:「朕惟檀、箕以來,疆土分張,各據一隅,互相爭雄,及高麗時,呑竝馬韓、辰韓、弁韓,是謂統合三韓。及我太祖龍興之初,輿圖以外,拓地益廣。」

奉天承運皇帝(高宗)は次のようにを下された。「が思うに、檀君箕子以来、(朝鮮は)領土が分離され各々(の勢力)が各地を占めては互いに覇権を争ってきたが、高麗の時代に馬韓辰韓弁韓のいわゆる三韓(この場合の三韓は、高麗が統合した後高句麗後百済新羅の「後三国」を指す。)を統合した。そして我の太祖李成桂)が王位に就いた初期のうちに(従来の)国土以外にも領土を広げた。」 — 高宗実録、巻三十六
上曰:「我邦乃三韓之地,而國初受命,統合爲一。今定有天下之號曰『大韓』,未爲不可。…舜澤曰:「自三代以來,有天下之號,未有承襲于前者矣。而朝鮮乃箕子舊封之號也,堂堂帝國,不宜因仍其號矣。且大韓之號,稽之帝統之國,無襲舊者矣。聖旨切當,無敢贊辭矣。」

お上(高宗)が言うには「我が国は三韓の地であるが、国の初め(李成桂の李朝樹立時)に天命を受けて一つの国に統合された。今、国号を『大韓』に定めては為らぬことは無い。」…舜澤(摂政の沈舜澤)が言うには「三代以来、国号は以前のものを踏襲した例がありません。ところで、朝鮮箕子がかつて(武王から)封じられた時の称号であるので、堂々とした皇帝の国として、その称号(朝鮮)をそのまま使うのは正しくありません。『大韓』の称号は、皇帝の系統を継いでいる国で考えますと、古き者から踏襲したものではありません。聖上(高宗)の仰られることは極めて当然のことで、あえて付け加えるような言葉はございません。」 — 高宗実録、巻三十六

関連項目

先代
統一新羅時代
朝鮮の歴史
892年 - 936年
次代
高麗

後三国時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/03 19:45 UTC 版)

太祖 (高麗王)」の記事における「後三国時代」の解説

919年王建松嶽郡に遷都し、郡を開州昇格させ、高麗後継者自称して国号高麗定め年号天授定めた920年後百済圧迫されていた新羅景明王信書送り同盟を結ぶことにした。 926年10月後百済新羅首都である金城慶州市)を占領し景哀王自殺した後百済手強く一進一退の攻防繰り広げていた。930年から高麗反撃転じ、古昌郡において後百済大敗させた。 933年後唐朝貢し、王建高麗国王に任じられた。 934年後百済休戦申し入れ王建もその気になったが、老将庾黔弼一人反対した。王建庾黔弼意見採用し後百済軍を打ち破り熊津公州市以北の地を手中に収めた。 935年後百済王位継承による内紛発生し936年初代王である甄萱キョン・フォン)が高麗投降した。また935年新羅最後の王敬順王(金傅)が高麗帰順した後百済内紛巧みに介入した王建は、936年遂に朝鮮半島統一成し遂げたのである

※この「後三国時代」の解説は、「太祖 (高麗王)」の解説の一部です。
「後三国時代」を含む「太祖 (高麗王)」の記事については、「太祖 (高麗王)」の概要を参照ください。

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