太祖 (高麗王)
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太祖(たいそ、877年1月31日 - 943年7月4日)は、初代高麗王(在位:918年 - 943年)。名は王建(おう・けん、ワン・ゴン)。字は若天。諡号は応運元明光烈大定睿徳章孝威穆神聖大王。
注釈
- ^ 『高麗史節要』では唐の粛宗だが、『編年綱目』では唐の宣宗とする。
- ^ 矢木毅によると、王建は、朝鮮を統一するためには女真から安定的に馬を入手する必要があり、女真の馬の貢納を促すために高句麗の継承を標榜したのであり、高句麗継承意識は高麗だけでなく渤海人や女真にも受け継がれ、「国初以来の『北進政策』によって、高麗の領域はひとまず鴨緑江下流域にまで北上したが、それは当時の渤海人・女真人の目からみれば、あくまでも『新羅』が高句麗の旧領を侵蝕していく過程にすぎなかったのである」と述べている[6]。
- ^ 八幡和郎は、「宝育は兄の娘の徳周を娶って娘の辰義をもうけましたが、辰義は素性の知れない中国人の商人と結ばれて王帝建(懿祖)を産みました」「父方の系譜において中国人の血を引く人物であることはたしかです」として、このような出自故にあえて高句麗の継承者を強調したのかもしれない、と述べている[2]。
出典
- ^ “韓国民族文化大百科事典 경강대왕”. 韓国民族文化大百科事典
- ^ a b 八幡和郎『誤解だらけの韓国史の真実』イースト・プレス、2015年4月10日、64頁。ISBN 978-4781650494。
- ^ a b c 高雲基 2001, p. 86-87
- ^ “김성회의 뿌리를 찾아서”. 世界日報. (2013年4月2日). オリジナルの2016年3月4日時点におけるアーカイブ。
- ^ “신천강씨 信川康氏”. 韓国民族文化大百科事典
- ^ 中野耕太「書評 矢木毅著『韓国・朝鮮史の系譜 : 民族意識・領域意識の変遷をたどる』」『北東アジア研究』第25号、島根県立大学北東アジア地域研究センター、2014年3月、127頁、ISSN 1346-3810。
- ^ a b “韓国民族文化大百科事典 의조경강대왕”. 韓国民族文化大百科事典
- ^ “東北工程:高麗も中国が建てた国=中国歴史雑誌”. 朝鮮日報. (2007年6月6日). オリジナルの2007年6月7日時点におけるアーカイブ。
- ^ “중국 역사잡지 “고려도 중국이 세워””. 朝鮮日報. (2007年6月6日). オリジナルの2021年10月14日時点におけるアーカイブ。
- ^ a b “송나라 사신 서긍 “왕씨 선조는 고구려의 대족””. 中央日報. (2013年4月20日). オリジナルの2021年10月14日時点におけるアーカイブ。
- ^ “ああ、高句麗”. 東亜日報. (2007年8月18日). オリジナルの2021年10月14日時点におけるアーカイブ。
- ^ “인문사회 한말 파란눈 학자들…아! 고구려”. 東亜日報. (2007年8月18日). オリジナルの2021年10月14日時点におけるアーカイブ。
- ^ 倉山満『嘘だらけの日韓近現代史』扶桑社〈扶桑社新書〉、2013年11月30日、28-29頁。ISBN 978-4594069520。
- ^ “王建의 후삼국통일 배후, 禪僧세력”. 東亜日報. オリジナルの2008年12月2日時点におけるアーカイブ。
- ^ 宮脇淳子『世界史のなかの蒙古襲来』扶桑社〈扶桑社新書〉、2021年12月22日、57頁。ISBN 4594090435。
- 1 太祖 (高麗王)とは
- 2 太祖 (高麗王)の概要
- 3 出自
- 4 王建の台頭
- 5 死去
- 6 後代の評価
- 7 太祖が登場する作品
「太祖 (高麗王)」の例文・使い方・用例・文例
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