幕政参与
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嘉永6年(1853年)6月、マシュー・ペリーの浦賀来航に際して、老中首座・阿部正弘の要請により海防参与として幕政に関わったが、水戸学の立場から斉昭は強硬な攘夷論を主張した。このとき江戸防備のために大砲74門を鋳造し弾薬と共に幕府に献上している(うち1門が水戸の常磐神社に現存)。江戸の石川島で洋式軍艦「旭日丸」を建造し、幕府に献上した。安政2年(1855年)には那珂湊反射炉を建設し、鉄製大砲を鋳造した。 安政2年(1855年)に軍制改革参与に任じられるが、同年の安政の大地震で藤田東湖や戸田忠太夫らのブレーンが死去してしまうなどの不幸もあった。安政4年(1857年)に阿部正弘が死去して堀田正睦が名実共に老中首座になると、さらに開国論に対して猛反対し、開国を推進する彦根藩主・井伊直弼と対立する。 さらに第13代将軍・徳川家定の将軍継嗣問題で、紀州藩主・徳川慶福を擁して南紀派を形成する井伊直弼らに対して、実子である一橋家当主・徳川慶喜を擁して一橋派を形成し、直弼と争った。しかしこの政争で斉昭は敗れ、安政5年(1858年)に直弼が大老となって日米修好通商条約を独断で調印し、さらに慶福(家茂)を第14代将軍とした。 このため、安政5年(1858年)6月24日に将軍継嗣問題及び条約調印をめぐり、慶篤や甥である尾張藩主・徳川慶恕と共に江戸城無断登城の上で井伊直弼を詰問したため、逆に直弼から7月に江戸の水戸屋敷での謹慎を命じられ、幕府中枢から排除された。 孝明天皇による戊午の密勅が水戸藩に下されたことに直弼が激怒、安政6年(1859年)には、水戸での永蟄居を命じられることになり、事実上は政治生命を絶たれる形となった(安政の大獄)。
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幕政参与
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譜代大名としての立身はそれほど早くはなく、江戸時代の前半には幕閣に名を連ねた藩主もほとんど出なかった。しかしその後、藩主牧野家において公卿や諸大名との婚姻・養子縁組が積極的に進められ、江戸後期には幕閣にも名を列ねるようになった。 寺社奉行や京都所司代を務めた牧野貞通の子を立て続けに藩主に迎え、また松平定信の親族に連なったこともあり、牧野忠精が天明元年(1801年)に老中に任ぜられ、寛政の遺老の一人として名を残した。 忠精に仕えた山本老迂斎(勘右衛門義方)は、6人の主君を補佐した名家老として著名であり、特に忠精に対しては老骨に鞭を打って献身的に尽くし、帝王学を授けた。 この忠精を皮切りに、幕政に重きをなすようになり、忠精、忠雅、忠恭と3代続いて老中を出した。 しかし、幕政参与のために借金がかさんで財政が悪化し、藩内で財政改革策を講じなければならなかった。天保の改革直前の天保11年(1840年)には庄内藩、川越藩との三方領地替えが計画され、牧野家は川越藩に移されそうになった。長岡藩内では特に反対の声は上がらず、動揺しつつも準備を進めていたが、庄内藩で領民の反対運動が起こったために計画は見送られた。
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