幕府祈祷所
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源平合戦までは、但馬地方は主に平家一門の知行する国であったが、平家追討の後、平家没収地に関東武士が多く入領することになった。幕府は、「惣追捕使」を「守護」と改め、小野時広の後任に安達親長を但馬国守護に任じた。 但馬国当役御家人交名出石郡雀岐新大夫助景右 当役御家人交名大略注進如件建久八年七月 日 守護所 源親長 建久8年(1197年)、鎌倉幕府は源平合戦の戦歿諸士・数十万柱の慰霊のため、全国に8万4,000基の五輪宝塔の造立を命じ、但馬国では五輪宝塔三百基を造立。うち六十三基は進美寺の住職が造立を担当し、残りの二百三十七基は但馬国内の有力者が造立を負担した。同10月4日、これら五輪宝塔造立法要を勧進奉行・源親長として進美寺で挙行し、以降も関東から但馬に入領した武士層を中心として源氏の氏寺として崇敬を深めた。 五輪宝塔造立祈願文 - 鎌倉殿(将軍・源頼朝)の仰せにより全国8万4,000基の五輪宝塔を造立するにあたり、但馬国の300基を進美寺で開眼供養を行う。それは源平内乱で数十万に及ぶ戦没者を慰め怨を転じて親となそうとする趣意からである。(願主:但馬国守護・源(安達)親長) 正治元年(1199年)にも「関東御祈祷所但馬進美寺」へ文書が発給され、承久の兵乱の後、但馬守護が太田昌明(常陸房)に交替してもこれらの権能は引き継がれた。
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