小中華と日本
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 13:04 UTC 版)
駐韓国日本大使を務めた武藤正敏によると朝鮮半島と距離を置こうとする日本人への心情に、常に小中華を自称する人々の中国への態度と格下と見なす日本に対する態度へのダブルスタンダードへの呆れや半島疲れがある。 嫌韓について、増加する日本永住や就職、文化交流希望など離れずに近づいてくる韓国人政府、韓国人が「日本人の一般的感覚なら嫌いなら普通は距離を置こう」とするのに「国内外で誰も制止せずに罵倒・足の引っ張り、国際法・国家間合意や約束・条約を守らないのに、日本に頼ろうとはふざけるな。関わりたくない。日本に近づいてくるな。嫌いなら来るな。」との気持ちからだと説明している。 韓国に批判的な人々は韓国に関連するモノは買わない・持たない、旅行先に選ばないなど徹底的にする傾向なのに対して、日本や日本人の悪口言うけど支援要求・再訪先・就職・永住など望んでいる韓国人の傾向も矛盾だとして嫌韓の人々が怒っているところだと述べている。 日本では、元寇や応永の外寇において起きた壱岐・対馬島民の虐殺への反感があった。李氏朝鮮からは交流目的である朝鮮通信使においてさえも、彼らの紀行文などには小中華思想に基づく日本を野蛮人とみなす蔑視がみられた。日東壮遊歌に見られるように、朝鮮においては朝鮮こそが、中華の次の存在であるとの中華秩序論が、なお儒学者を中心に広く流布した。 19世紀末から日本では、「欧米列強の植民地にならない国家づくり」のため、明治維新によって急速な洋化をすすめていた。 当時、欧米列強の植民地政策の波は東アジアにも及び、隣国の朝鮮もロシアの南下政策の危機にさらされていた。 朝鮮半島は日本にとって重要な緩衝地域であり、朝鮮に「維新」を輸出し朝鮮を近代国家とし、共に協力しながら日朝でロシアの南下の脅威に備えることはできないかと構想していたが、朝鮮は鎖国政策を継続し、日本のような改革を受け入れる気は毛頭なかった。朝鮮の宗主国であった清国は弱体化し、日本では欧米列強より先に朝鮮を日本の陣営に引き込むことは地政学上も重要と考えられていたが、朝鮮においては意見の相違があった。 明治政府は朝鮮に使節を送ったが、洋服の装いで西洋化した日本側の使節を「もはや日本人(徳川幕府側の人間)ではない」として拒絶。その背景には日本の国書にある「皇」や「勅」の字を華夷秩序に属する藩属国の朝鮮が認められないという背景があった。 これらに憤激した日本側では征韓論が起こった。 知識人でも、たとえば、福澤諭吉は、朝鮮を近代化し、従属関係にあった清国から独立させて協力する構想を抱き、金玉均支援など開花派を行っていたが、甲申政変が清国軍に征圧されて失敗に終り、朝鮮の刺客によって暗殺された遺体が八つ裂きにされて晒されると「脱亜論」を唱え、「悪友を親しむ者は共に悪名を免かるべからず。我れは心に於て亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり」などと表現するようになった朝鮮人の対日蔑視も小中華思想から来ており、中華文明との距離が小さい朝鮮を「兄」、距離が大きく中華帝国との結びつきも弱い日本を「弟」とし、「中華文明の恩恵少なき野蛮な弟・日本を文明国たる兄・朝鮮が教化する」という考えが前提となっている。これは、両国の関係が表向き対等となっていた室町、江戸時代に至っても残存し、実情にそぐわない自尊主義的な対日観を朝鮮の知識人にもたらした。 現在でも、この発想は韓国知識人の発言などにたびたび散見される(韓国起源説など)。日本による韓国併合での反発は知識人を支配者側に同化させないという世界の植民地支配と対置して珍しい事態をもたらした。 以降、朝鮮の知識人は近代的知識人に世代交代してからも日本を普遍文明とみなすことは少なく、これが日本人による反発をさらに強めたとする主張が存在する。 しかし、日本・朝鮮の双方とも近代以前の文明に対する認識を根拠に差別意識を持ったのは精々知識人層にかぎられており、一般庶民への浸透度に関する疑問も長らく唱えられつづけている。少なくとも、一般庶民における蔑視感情は併合の前後をとおしてピークに達していることは確認できる。第二次世界大戦の終結直後にも一時的に朝鮮人への反感が増幅した。 これによって、一部の朝鮮人の民族主義的な運動や暴動自体が危険だと指摘され、GHQ/SCAPはこれらの活動を危険視し解体させた。 有名なのは日本人の菅谷政雄が中国人、台湾人、韓国人を組織して三宮を中心に作った「国際ギャング団」であった。しかし、日本政府がこの無法を許していたわけではなく、「国際ギャング団」も、当時、兵庫県警刑事課長だった秦野章(後の警視総監・自民党参議院議員)によって幹部のほとんどを逮捕され解散に追い込まれた。 こういった騒動はサンフランシスコ講和条約締結まで続き、この過程で一般の日本人の間にも同様の認識が広まり、韓国に対する嫌悪感が高まることになった。 韓国の初代大統領であった李承晩は国策として、反共・反日・反中の3つの柱を据え、サンフランシスコ条約が発効する直前、李承晩ラインを一方的に宣言、1953年には日本の漁船が韓国軍に襲撃され船長が死亡する第一大邦丸事件が発生、さらに独島義勇守備隊が島根県竹島に不法上陸した。 日本は度々抗議したが、韓国は竹島(韓国名:独島)は韓国領土であると主張し続けている。日本に対する韓国について書籍を多数出版している韓国人のシンシアリーによると「国内で牽制勢力が皆無なこと」が韓国における反共と反日の決定的な差だと結論付けている。 韓国では反共、つまり北朝鮮への対応は右派・左派で互いに牽制・マウンティングし合って対立しているが、反日については右派・左派関係なく一致して日本を叩くために協力すると明かしている。例えば台湾では、日本統治時代を肯定的に評価・日本の主張を支持する言論に対して、批判する者もいるが支持や容認する者もいて日本に関しての言論の自由が守られている。 それに対して、同じく自由主義陣営なはずの韓国では、日本統治時代に関する肯定的な言論・出版をすることや大局的・経済的・安保的な面から日本と過去の問題で対立しても最終的に韓国の国益にならないこと・韓国側の主張が間違っているなどの反日に批判・牽制の意見を持つ者は実名が大衆に発覚すると国民情緒法に基づく吊るし上げや法の不遡及を無視した刑事罰・賠償をされていることを知っているため、それを恐れて黙らざるを得ないと述べている。 韓国では反日言動・言論に関しては台湾より、共産国家の北朝鮮・中国の言論統制状態に近いと述べている。さらに韓国人が左派だけではなく、右派・無党派さえも、より直近の事実である、同胞を最も殺傷し、統一を妨害した中国を非難しないのは、日本憎悪教育の問題だけではなく、より深い中国への恐怖が韓国人にあるからだと指摘している。 韓国駐在日本大使だった武藤正敏や中央日報や朝鮮日報の一部の記者からも韓国、韓国人は日本、日本人よりも自国に被害をもたらした中国には声も出せないし、顔色を見ているダブルスタンダードを指摘されている。武藤は小中華思想が韓国人にあるからこそ朝鮮戦争やそれ以前の属国時代、戦後の記者リンチなど中国による死傷者や被害など気にしないと分析している。デモをよくする左派が反中デモしないことや中国の顔色を見ているマスコミ報道、韓国政府の姿勢の差も指摘している。
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