完成以後
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1879年(明治11年)には、黒川堰との交渉があった。黒川堰は、波田堰よりも数年早い起工で、上流域では、黒川堰の土石が波田堰に落ちて害を及ぼすことがよくあった。そのころ山形の唐沢五郎が黒川堰の残工事を引き継いでいた。難航の末、潰れ地のことや分水について規定を約した。 1883年(明治15年)には、上波田・下波田・三溝の3村が合併して波多村になった。三溝耕地は300円を出して波田堰に参加し、秋には15町歩を開田することになり、これで波田堰当初の開田目標であった200町歩を達成した。また、この秋、御渡海道に境内600坪で岡象女神を勧請した水神社を設立した。 1884年(明治16年)3月に、波多腰六左は、みずからの担任を解いて、波田堰を戸長役場に引き渡した。 1921年(大正10年)、波田堰水利組合が設立され、従来は村の特別会計で運営されていたが、会計が独立した。 1933年(昭和8年)には、関係地主386人の賛成を得て、波多堰耕地整理組合を設立し、県費補助工事として波田堰改修工事にあたることになった。開削以来、漏水が多く流末への通水が悪かった波田堰は、工費1万9000円を投じたこの改修工事により、灌漑水が末端まで引かれるようになり、水田面積も207町5反まで増加した。 1949年(昭和24年)、『土地改良法』が制定された。この法律により、今までのように、村の会計管理下で、波田堰の維持管理、受益地域内の農道・用水路の改修をすることができなくなった。そこで、1951年(昭和26年)10月、県下25番目の土地改良区として波田土地改良区が設立認可された。これ以降、波田堰の維持管理に伴う事業は波田土地改良区がになうこととなった。 1968年(昭和43年)、県営圃場整備事業が着工され、東西・南北に直交する農道と、1枚が30aの耕地、コンクリート化された水路という現在の姿が完成された。この時の波田堰の水田面積は285haであった。ただ、60年代までの水路は、長年の浸食のために、土地は無駄に使われる部分もあったが、それらの水路には個性があり、その周辺では多様な植物・動物の生息が許されていた。しかし、今では単調で急なコンクリート水路になってしまい、蛙でさえ流れに逆らずに流されてしまう。また、この事業以前には、主要な道路は「和田道」と呼称された東西縦貫道路と、「木曽道」と呼ばれた南北横断道路が幹線道であった。しかし、圃場整備事業によって、整然と区画された縦横の道路が等間隔に走るようになった。ただし、旧和田道に相当する部分の道路は、水神社脇の交差点から、下原集落北端部を抜け、県道48号線に出ることができる(県道48号線ができる以前は、和田集落を抜けて松本市街方面に出るために使われていた)ので、後年になっても交通量が多く、今(2012年)も同様である。下原集落部分に交通信号が2基あるが、国道158号線を除けば、波田地区内で交通信号機があるのは、この2基だけである。 1971年(昭和46年)に、東京電力梓川ダムが完成し、梓川諸堰の取水口は上海渡分水口に移された。
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