守成・拡張
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200年春、19歳で孫策の遺命を受けて家督を継いだ。張昭に師傅の礼を執り、父や兄から引き継いだ家臣の周瑜・朱治・程普・呂範らをまとめあげると積極的な人材登用を行い、周瑜から皇帝としての資質を認められ、魯粛を薦められた。その後も陸遜・諸葛瑾・歩騭・顧雍・是儀・厳畯・呂岱・徐盛・朱桓・駱統らを登用した。 家督を継いだ当初は、会稽・呉郡・丹陽・豫章・廬江・廬陵の江東六郡を領有するが、五郡(廬江・会稽・廬陵・丹陽・豫章)が反旗を翻すと、多くの人々が江東から逃げ出して中原に逃げた。従兄の孫輔は、曹操との内通があったことが発覚したため幽閉され、弟の孫翊や孫堅の代からの臣である孫河が部下に殺害され、従兄の孫暠が反乱を企てたことなど、種々の困難に見舞われた。廬江太守の李術は曹操を頼って反乱し、孫権に叛いて揚州刺史厳象を殺し、江東からの逃亡者を多く受け入れた。廬江郡の梅乾・雷緒・陳蘭らも李術に同調し、手勢数万人を集めて長江・淮水流域の郡県を破壊した。孫権が逃亡者返還を求めると、李術はこれを拒絶した。そこに怒った孫権は、先に李術の非を曹操に説いた上、自ら徐琨・孫河を率いて皖城を包囲した。李術は皖城に篭って曹操に助けを求めたものの、曹操の援軍は来ず、食糧は底を尽き落城した。孫権は、李術を討ち取り、皖城の兵・民衆3万人を得た。また、程普を率いて三郡を連戦して服さぬ者を平定した。山越が孫権に対して反乱を起こしたため、軍隊を諸将に分けて山越を鎮撫し、命令に従わぬ者を討伐させた。孫権は、裏切り者たちを一掃し、江東各地を平定した。内政を整え、領土を安定させ、巧みな内政手腕を発揮して江東を治めた。 203年(建安8年)、孫権は自ら指揮を執って江夏を討伐し、父の仇である黄祖の軍を打ち破ったが、黄祖は城に逃げ込んでこれを固守した。しかしこの時、山越が背後で反乱が起こったため孫権は撤退した。孫権は豫章に戻り、呂範に命じてに鄱陽を平定させ、程普に楽安を討たせた。建安・漢興・南平の不服従民が再び背き、賀斉に命じて鎮圧させた。反乱の頭目は悉く捕虜となり、討ち取った首は6千にもなったという。のち黄祖の元部下甘寧が降伏してきたためこれを受け入れた。腹心の顧徽を曹操へ使者として派遣し、朝廷の内情を調査した。その後、広陵郡に侵攻し、これを占領した。 206年(建安11年)、孫権は周瑜・孫瑜・凌統を率いて、山越の麻屯・保屯を討伐し、1万余の捕虜を得た。 208年(建安13年)、孫権が再び江夏に自ら軍の指揮を執り討伐し、黄祖を討ち取り江夏郡の南部を落とした。 同年の末、曹操が大軍を率いて南下すると、孫氏軍閥は抗戦か降伏かの決断を迫られた。「近ごろ罪状を数えたてて罪人を討伐せんとし、軍旗が南に向かったところ、劉琮はなんら抵抗もせず降伏した。今度は水軍80万の軍勢を整えて、将軍(あなた)とお会いして呉の地で狩猟をいたそうと思う。」孫権はこの手紙を受け取ると群臣たちに示したが、震え上がり顔色を変えぬ者はなかった。孫権は魯粛の進言を聞き入れ、荊州の動向を探るため、劉表の弔問使者として魯粛を派遣した。劉琮が曹操に降伏し、劉備は長坂の戦いに敗れ夏口に駐屯していた劉琦と合流した。後に曹操の追撃により劉備は劉琦と共に孫権領の江南に逃げ込んだが、魯粛と面会し劉備に同盟を説いた。劉備は諸葛亮を派遣して魯粛と共に孫権に面会させた。当時、孫権の臣下は降伏派(張昭・秦松など)が多勢を占める中、孫権は抗戦派であり、降伏派に失望していたことを打ち明け、後に周瑜が群臣に両軍情勢を分析したため、周瑜・魯粛等と共に開戦を決断した。孫権は剣を抜くと前に置かれた上奏文を載せるための案(机)を斬りつけて、「お前達の中にこれ以上降伏すべしと申す者がおれば、この案と同じ運命になると思え」と言った。孫権は夜のうちに周瑜に「5万の精兵はすぐには集めるのは難しい。しかしすでに3万人を選び、艦船、武器、物資も揃っている。お前はもし勝てると判断したならば曹操と決戦せよ。もしお前が負けたなら、私の所へ退却せよ。私が自ら曹操と勝負を決めよう」と言った。周瑜・程普に2万の軍勢の指揮権を与え、魯粛を賛軍校尉に任命してこれを補佐させた。また孫権は自ら1万の軍勢を率いて周瑜等に加勢し、賀斉・蔣欽を派遣って後方の山越反乱を平定させた。かくして孫権軍は劉備と合流し、曹操と戦う事となった。江南の気候や地勢に不慣れな曹操軍は疫病に苦しめられていたこともあって、周瑜らは赤壁の戦いで、黄蓋の火攻めにより曹操の水軍を大いに破った。部下達などと共に周瑜に従って赤壁、烏林と連戦した。赤壁の戦いの後に、孫権は周瑜を連動して合肥に包囲すると、孫劉連合軍は荊州の大部分を奪った。張紘の忠告を聞き入れて、攻略を諦めて撤退した。 戦後、孫権は南郡・武陵・長沙・桂陽・零陵の荊州南部の五郡を領有することとなった。劉備は公安でも士民を養うのに足りないと考え、京口に赴いていたとき、直接孫権のところに荊州の数郡を借りることを頼み込みに行った。また、妹を劉備の継室として嫁がせ、周瑜・甘寧らが孫権に蜀を取ることを勧め兵を送ったが、孫権は劉備に共同して益州を獲ろうと申し出てきたが、劉備は、自分自身が蜀を占拠しようと秘かに考えたためこれを断った。孫権はこれを聞かず、周瑜の計画による蜀へ進攻したが、その遠征の途上に周瑜は巴丘にて急逝した。周瑜が早世した後に魯粛が継ぎ、程普は南郡太守となったが、江陵に軍を置いた。孫権は長沙を分割して漢昌郡を置き、魯粛をその太守とした上で、陸口に駐屯地を移した。劉備と協調して曹操に対抗すべきだという魯粛の提案により、孫権は荊州を分割して劉備に数郡を貸し与え、劉備を上表して荊州牧に立て、劉備の上奏で徐州牧・行車騎将軍に就任した。その後、孫瑜が益州に入ろうとしたが、劉備に止められた。劉備は孫瑜に「お前が蜀を取るつもりならば、私は髪を振り乱して山へ入り、天下に信義を失わないようにするぞ」と言った。 210年(建安15年)、歩騭を交州へ交州刺史として派遣した。翌年にかけて歩騭は蒼梧太守呉巨が異心を抱くのを見し、表面的には友好的な接し方をした上で、会見の場で呉巨を斬り、交阯の士燮一族もその威を恐れて服属を誓った。歩騭は水軍を率いて交州各地を攻撃し、全て攻め落とした。交州の南海・鬱林・交阯・日南・珠崖・儋耳・蒼梧・九真・合浦の九郡を領有した。同年、張紘の進言により遷都が実施された。 212年(建安17年)、曹操が濡須に進軍したとして、孫権は劉備に救援を求めた。翌年にかけて曹操は40余万の軍勢の指揮を執って濡須を攻撃した。劉備が約束を破り益州に侵攻したので、救援を得なかった孫権は、自ら7万の軍勢を率いて曹操を迎撃した。曹操は水軍を率いて中洲への進軍しようとしたが、孫権に包囲されて敗走した。曹操との濡須での戦いで、敵3000余を捕虜にし、曹操軍で戦没・溺死した者も数千人に及んだ。その後も、孫権がしばしば戦いを挑んだが、曹操は堅く守って出て来なかった。そこで孫権は自ら軽船に乗って曹操の軍営へ強行侵入したり、魏軍の諸将らが迎撃しようとしたところ、曹操が「これはきっと孫権が自ら我が部隊を見ようとしたものだ」とし、軍中は厳戒し、弓をみだりに撃たせなかった。孫権は行くこと五・六里で回頭し、鼓吹して帰還した。曹操は孫権の布陣に少しの乱れも無いことに感嘆し、「息子を持つなら、まさに孫権のような息子がいい」(生子当如孫仲謀)と周囲に語ったという。孫権が曹操への札簡で説くには「春はまさに水が生ず。君は宜しく速やかに去るべし」。別の紙で皮肉言うには、「足下が死なねばわしは安んずることができぬ」。曹操が諸将に語るには「孫権はわしを欺かぬ」かくして軍を徹収して帰還した(濡須口の戦い)。戦いの後、曹操は部下の意見に従わず領内の人々を移住させようとしたが、淮水・長江付近に住む十数万の人々は孫権領に逃げ込んでしまった。 214年(建安19年)5月、呂蒙・甘寧とともに曹操領の皖城を攻撃し、朝のうちには皖城を攻め落し、廬江太守の朱光と数万人の男女を捕虜にした。この時、曹操の援軍として張遼が夾石まで来ていたが、落城の知らせを聞き退却した。 214年-215年間(建安19年-20年間)、曹操が10余万の軍勢の指揮を執り濡須一帯を侵攻したが戦果なく、甘寧に命じて曹操の軍営へ夜襲をかけ、100人で曹操軍を撃退した。後に劉備が益州刺史の劉璋を攻めて益州を領有すると、孫権は荊州の長沙・桂陽・零陵の3郡の返還を要求した。しかし、劉備は涼州を手に入れてから荊州の返還を行おうとこれを先延ばした。涼州は益州の遥か北であり、当時で益州と涼州の間であと漢中があると、劉備がこれを奪うことはその時点で不可能に近く、返すつもりが無いと言ったも同然であった。孫権は諸軍節度(総指揮)として軍の指揮を執り陸口に駐屯した。3郡を支配するため役人を送り込んだが追い返されたので、魯粛を巴丘に派遣して関羽を対抗し、一方呂蒙らの軍勢を派遣して長沙・桂陽・零陵を奪還した。劉備も大軍を送り込み全面戦争に発展しそうになったが、曹操が漢中に侵攻したので、劉備は益州を失うことを恐れて、孫権へ和解を申し入れてきた。孫権と劉備はかくて湘水を境界線として割き、江夏・長沙・桂陽は東側となり、南郡・武陵・零陵は西側となった。 同年、合肥城を攻めたが、疫病によるこれを降せず帰還した。凌統・甘寧等とともに殿軍として大軍を守り、大軍を無事に退却させた。途上にいたところを張遼の奇襲にあい、寡兵で部下らとともに勇猛に戦った。孫権は、弓で敵の追撃を切り抜け、魏軍に破壊された橋を騎術で飛び越えて退却した。 216年(建安21年)、長沙郡の呉碭と袁龍も関羽に呼応して好機を通じ再び反乱を起こし、魯粛と呂岱に命じて平定させた。曹操は自ら10万大軍を率い侵攻してきた、曹操の濡須攻撃に先立ち、山越が曹操に呼応して挙兵したが、賀斉と陸遜に命じて平定させた。不服従民の首領を討ち取り精兵数万人を得、これらを孫権軍に加える。217年(建安22年)、孫権は自ら水軍を率いて曹操を退け、呂蒙と蔣欽を全軍指揮に任命して曹操を防がせた(濡須口の戦い)。曹操は濡須塢を攻め落れず、逆に孫権の部将らが曹操を撃ち破って敗走させた。防備を厳重にしていたため、最終的には孫権はこの戦いに勝利し曹操を首都帰還へと追い込んでいる。戦いの後、孫権は政策転換をはかり、謀略で使者を派遣して漢王朝への偽りの臣従を申し出て、曹操を利用して休戦が行われた。209年-217年間、孫権は四度も巣湖濡須で曹操の侵攻を食い止めることに成功した。 218年(建安23年)、孫権は曹操に帝位に就く事を勧めた。この手紙を見た曹操は「この小僧め。跪いてみせながらわしを囲炉裏の炭の上に据えようというのか」と言った。 219年(建安24年)、孫権は息子と関羽の娘との婚姻を申し入れたが、関羽はこれを断り使者を辱めていた、また城を攻め落れず、長沙郡と零陵郡の境にある湘関の米を強奪したこともあった。孫権は内に関羽を畏れ、功を挙げたいと称して漢王朝に関羽を自ら討ちたいと申し出た。漢献帝の許しを得て、荊州に進軍している。呂蒙を先鋒として内応していた士仁、麋芳を降伏させた。関羽は益州に逃れようとしたが、孫権は元の荊州を全数が奪還わせ、関羽は当陽まで引き返したのち、西の麦城に篭った。孫権は降伏を誘う使者が派遣すると、関羽は偽って降るふりをして逃走しようとした。孫権は潘璋・朱然を派遣して関羽の退路を遮断し、退路を失った関羽を捕らえこれを斬った。その首は、使者によって曹操の下へ送られ、孫権は諸侯の礼をもって当陽に関羽の死体を葬った。孫権が、漢献帝の承認により荊州南部の領有を確実にした。
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