守成・拡張とは? わかりやすく解説

守成・拡張

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 17:28 UTC 版)

孫権」の記事における「守成・拡張」の解説

200年春、19歳孫策遺命受けて家督継いだ張昭師傅の礼を執り、父や兄から引き継いだ家臣周瑜朱治程普呂範らをまとめあげる積極的な人材登用行い周瑜から皇帝として資質認められ魯粛薦められた。その後陸遜諸葛瑾歩騭顧雍是儀厳畯呂岱徐盛朱桓駱統らを登用した。 家督継いだ当初は、会稽呉郡丹陽豫章廬江廬陵江東六郡を領有するが、五郡(廬江会稽廬陵丹陽豫章)が反旗を翻すと、多く人々江東から逃げ出して中原逃げた従兄孫輔は、曹操との内通があったことが発覚したため幽閉され、弟の孫翊孫堅の代からの臣である孫河部下殺害され従兄孫暠反乱企てたことなど、種々の困難に見舞われた。廬江太守李術曹操頼って反乱し孫権に叛いて揚州刺史厳象殺し江東からの逃亡者多く受け入れた廬江郡梅乾雷緒陳蘭らも李術同調し手勢数万人を集めて長江淮水流域の郡県を破壊した孫権逃亡者返還求めると、李術はこれを拒絶した。そこに怒った孫権は、先に李術の非を曹操説いた上、自ら徐琨孫河率いて皖城を包囲した李術は皖城に篭って曹操助け求めたものの、曹操援軍来ず食糧は底を尽き落城した。孫権は、李術討ち取り、皖城の兵・民衆3万人得たまた、程普率いて三郡を連戦して服さぬ者を平定した。山越孫権に対して反乱起こしたため、軍隊諸将分けて山越鎮撫し、命令従わぬ者を討伐させた。孫権は、裏切り者たちを一掃し江東各地平定した。内政整え領土安定させ、巧み内政手腕発揮して江東治めた203年建安8年)、孫権は自ら指揮を執って江夏討伐し、父の仇である黄祖の軍を打ち破ったが、黄祖は城に逃げ込んでこれを固守した。しかしこの時、山越背後反乱起こったため孫権撤退した孫権豫章戻り呂範命じて鄱陽平定させ、程普楽安を討たせた。建安漢興南平不服従民が再び背き賀斉命じて鎮圧させた。反乱頭目悉く捕虜となり、討ち取った首は6千にもなったという。のち黄祖の元部下甘寧降伏してきたためこれを受け入れた腹心顧徽曹操使者として派遣し朝廷内情調査したその後広陵郡侵攻し、これを占領した206年建安11年)、孫権周瑜孫瑜凌統率いて山越の麻屯・保屯を討伐し、1万余の捕虜得た208年建安13年)、孫権が再び江夏に自ら軍の指揮執り討伐し、黄祖討ち取り江夏郡南部落とした同年の末、曹操大軍率いて南下すると、孫氏軍閥抗戦降伏かの決断迫られた。「近ごろ罪状数えたてて罪人討伐せんとし軍旗が南に向かったところ、劉琮はなんら抵抗もせず降伏した今度水軍80軍勢整えて将軍(あなた)とお会いして呉の地で狩猟いたそうと思う。」孫権この手紙を受け取ると群臣たちに示したが、震え上がり顔色変えぬ者はなかった。孫権魯粛進言聞き入れ荊州動向を探るため、劉表弔問使者として魯粛派遣した劉琮曹操降伏し劉備長坂の戦い敗れ夏口駐屯していた劉琦合流した。後に曹操追撃により劉備劉琦と共に孫権領の江南逃げ込んだが、魯粛面会し劉備同盟説いた劉備諸葛亮派遣して魯粛と共に孫権面会させた。当時孫権臣下降伏派(張昭秦松など)が多勢占める中、孫権抗戦派であり、降伏派に失望していたことを打ち明け、後に周瑜群臣両軍情勢分析したため、周瑜魯粛と共に開戦決断した孫権は剣を抜くと前に置かれ上奏文を載せるための案()を斬りつけて、「お前達中にこれ以上降伏すべしと申す者がおれば、この案と同じ運命になると思えと言った孫権夜のうちに周瑜に「5万精兵はすぐには集めるのは難しい。しかしすでに3万人選び艦船武器物資揃っている。お前はもし勝てると判断したならば曹操決戦せよ。もしお前が負けたなら、私の所へ退却せよ。私が自ら曹操勝負決めようと言った周瑜程普2万軍勢指揮権与え魯粛を賛軍校尉任命してこれを補佐させた。また孫権は自ら1万軍勢率いて周瑜等に加勢し賀斉蔣欽派遣って後方山越反乱平定させた。かくして孫権軍劉備合流し曹操と戦う事となった。江南気候地勢不慣れな曹操軍疫病苦しめられていたこともあって、周瑜らは赤壁の戦いで、黄蓋火攻めにより曹操水軍大い破った部下達などと共に周瑜に従って赤壁、烏連戦した。赤壁の戦いの後に、孫権周瑜連動して合肥包囲すると、孫劉連合軍荊州大部分奪った張紘忠告聞き入れて攻略諦めて撤退した戦後孫権南郡武陵長沙桂陽零陵荊州南部の五郡を領有することとなった劉備公安でも士民を養うのに足りない考え京口赴いていたとき、直接孫権ところに荊州の数郡を借りることを頼み込み行ったまた、妹を劉備継室として嫁がせ、周瑜甘寧らが孫権に蜀を取ることを勧め兵を送ったが、孫権劉備共同して益州を獲ろうと申し出てきたが、劉備は、自分自身が蜀を占拠しよう秘かに考えたためこれを断った孫権はこれを聞かず周瑜計画による蜀へ進攻したが、その遠征途上周瑜は巴丘にて急逝した周瑜早世した後に魯粛継ぎ程普南郡太守となったが、江陵に軍を置いた孫権長沙分割して漢昌郡を置き、魯粛をその太守とした上で、陸口に駐屯地移した劉備協調して曹操対抗すべきだという魯粛提案により、孫権荊州分割して劉備に数郡を貸し与え劉備上表して荊州牧に立て劉備の上奏で徐州牧・行車騎将軍就任したその後孫瑜益州入ろうとしたが、劉備止められた。劉備孫瑜に「お前が蜀を取るつもりならば、私は髪を振り乱して山へ入り天下信義失わないようにするぞ」と言った210年建安15年)、歩騭交州交州刺史として派遣した翌年にかけて歩騭蒼梧太守呉巨異心を抱くのを見し表面的に友好的な接し方をした上で会見の場で呉巨を斬り、交阯士燮一族もその威を恐れて服属誓った歩騭水軍率いて交州各地攻撃し全て攻め落とした交州南海鬱林交阯日南珠崖・儋耳・蒼梧九真合浦の九郡を領有した同年張紘進言により遷都実施された。 212年建安17年)、曹操が濡須に進軍したとして、孫権劉備救援求めた翌年にかけて曹操40軍勢指揮を執って濡須を攻撃した劉備約束破り益州侵攻したので、救援を得なかった孫権は、自ら7軍勢率いて曹操迎撃した。曹操水軍率いて中洲への進軍しようとしたが、孫権包囲され敗走した曹操との濡須での戦いで、敵3000余を捕虜にし、曹操軍戦没溺死した者も数千人に及んだその後も、孫権がしばしば戦い挑んだが、曹操堅く守って出て来なかった。そこで孫権は自ら軽船に乗って曹操軍営強行侵入したり、魏軍諸将らが迎撃ようとしたところ、曹操が「これはきっと孫権が自ら我が部隊見ようしたものだ」とし、軍中厳戒し、弓をみだりに撃たせなかった。孫権は行くこと五・六里で回頭し、鼓吹して帰還した曹操孫権布陣に少しの乱れも無いことに感嘆し、「息子を持つなら、まさに孫権のような息子がいい」(生子当如孫仲謀)と周囲語ったという。孫権曹操への簡で説くには「春はまさに生ず。君は宜し速やかに去るべし」。別の紙で皮肉言うには、「足下が死なねばわしは安んずることができぬ」。曹操諸将に語るには「孫権はわしを欺かぬ」かくして軍を徹収して帰還した濡須口の戦い)。戦いの後曹操部下意見従わず領内人々移住させようとしたが、淮水長江付近に住む十数人々孫権領に逃げ込んでしまった。 214年建安19年5月呂蒙甘寧とともに曹操領の皖城を攻撃し、朝のうちには皖城を攻め落し廬江太守朱光数万人の男女捕虜にした。この時、曹操援軍として張遼が夾石まで来ていたが、落城知らせ聞き退却した214年-215年間(建安19年-20年間)、曹操10軍勢指揮執り濡須一帯侵攻した戦果なく、甘寧命じて曹操軍営夜襲をかけ、100人で曹操軍撃退した。後に劉備益州刺史劉璋攻めて益州領有すると、孫権荊州長沙桂陽零陵の3郡の返還要求した。しかし、劉備涼州手に入れてから荊州返還行おうとこれを先延ばした。涼州益州の遥か北であり、当時益州涼州の間であと漢中があると、劉備がこれを奪うことはその時点で不可能に近く返すつもりが無いと言った同然であった孫権諸軍節度総指揮)として軍の指揮執り陸口に駐屯した。3郡を支配するため役人送り込んだ追い返されたので、魯粛を巴丘に派遣して関羽対抗し一方呂蒙らの軍勢派遣して長沙桂陽零陵奪還した劉備大軍送り込み全面戦争発展しそうになったが、曹操漢中侵攻したので、劉備益州を失うことを恐れて孫権和解申し入れてきた。孫権劉備はかくて湘水境界線として割き江夏長沙桂陽東側となり、南郡武陵零陵西側となった同年合肥城を攻めたが、疫病によるこれを降せず帰還した凌統甘寧とともに殿軍として大軍守り大軍無事に退却させた。途上にいたところを張遼奇襲にあい、寡兵部下とともに勇猛に戦った孫権は、弓で敵の追撃切り抜け魏軍破壊されを騎術で飛び越えて退却した216年建安21年)、長沙郡呉碭と袁龍も関羽呼応して好機通じ再び反乱起こし魯粛呂岱命じて平定させた。曹操は自ら10万大軍率い侵攻してきた、曹操の濡須攻撃先立ち山越曹操呼応して挙兵したが、賀斉陸遜命じて平定させた。不服従民の首領討ち取り精兵数万人を得、これらを孫権軍加える。217年建安22年)、孫権は自ら水軍率いて曹操退け呂蒙蔣欽全軍指揮任命して曹操を防がせた(濡須口の戦い)。曹操は濡須塢を攻め落れず、逆に孫権部将らが曹操撃ち破って敗走させた。防備厳重にしていたため、最終的に孫権はこの戦い勝利し曹操首都帰還へと追い込んでいる。戦いの後孫権政策転換をはかり、謀略使者派遣して漢王朝への偽りの臣従申し出て曹操利用して休戦が行われた。209年-217年間、孫権四度巣湖濡須で曹操侵攻食い止めることに成功した218年建安23年)、孫権曹操帝位に就く事を勧めたこの手紙を見た曹操は「この小僧め。跪いてみせながらわしを囲炉裏の炭の上据えようというのか」と言った219年建安24年)、孫権息子関羽の娘との婚姻申し入れたが、関羽はこれを断り使者辱めていた、また城を攻め落れず、長沙郡零陵郡の境にある湘関の米を強奪したこともあった。孫権は内に関羽畏れ、功を挙げたい称して漢王朝関羽を自ら討ちたいと申し出た。漢献帝許し得て荊州進軍している。呂蒙先鋒として内応していた士仁麋芳降伏させた。関羽益州逃れようとしたが、孫権は元の荊州全数奪還わせ、関羽当陽まで引き返したのち、西の麦城に篭った。孫権降伏を誘う使者派遣すると、関羽偽って降るふりをして逃走しようとした。孫権潘璋朱然派遣して関羽退路遮断し退路失った関羽捕らえこれを斬った。その首は、使者によって曹操の下へ送られ孫権諸侯の礼をもって当陽関羽死体葬った孫権が、漢献帝承認により荊州南部領有確実にした。

※この「守成・拡張」の解説は、「孫権」の解説の一部です。
「守成・拡張」を含む「孫権」の記事については、「孫権」の概要を参照ください。

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