地震津波の記録
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延宝5年10月9日夜五つ時(亥刻)(1677年11月4日20-22時頃)、陸奥岩城から房総半島、伊豆諸島および尾張などにかけて大津波に襲われた。 「冬十月九日癸丑、常陸水戸陸奥岩城逆波浸陸」(『野史』)など、10月9日夜に津波が上ったとする記述は多く見られるが、地震動の記録は少なく、震害が現れるほどの烈震記録は確認されていない。地震動の記録には以下のようなものがある。 「九日岩城大地震諸浜津波打上ヶ」(岩城領内『慶天拝書』) 「夜清天静ニて、五ツ時地震震動致シ沖より津波上ヶ」(下総銚子『玄蕃先代集』) 「十月九日夜の五つ時分少しの地志ん有之、辰巳沖より海夥鳴来り」(上総東浪見(一宮)『万覚書写』) 「晴天、夜地震三度」(江戸『稲葉氏永代日記』) 地域推定震度東山道 岩城(E) 東海道 銚子(e), 東浪見(e), 勝浦(e), 江戸(e) S: 強地震(≧4), E: 大地震(≧4), e: 地震(≦3) 津波の被害状況地域推定波高・遡上高古文書の記録羽鳥(2003)竹内(2007)塩竈?* 現・塩竈市? 家数218軒流倒候、男女44人溺死『岩城領内大風雨大破洪水之節覚書』? 4-5m 岩沼 現・岩沼市 民屋490軒余流家、人馬150人溺死『玉露叢』 4-5m 四倉 現・いわき市 於浦々家数330軒流倒候、男女75人溺死江名豊間、両浦家数218軒流倒候、男女44人溺死『岩城領内大風雨大破洪水之節覚書』 4m 4.0-6.0m 豊間 現・いわき市 5.5-7.0m< 小名浜 現・いわき市 4.0-6.0m 那珂湊 現・ひたちなか市 那珂港の別館ニ在テ海上俄ニ鳴動シ激波天ニ接ス余波館前ニ及フ『水戸紀年』 4m 4.5-5.5m 大洗 現・大洗町 磯浜村家屋を320軒流出『大洗地方史』 5m 5.0-6.0m< 銚子 現・銚子市 其節笠上新田古屋敷迄上り、男女2人浪ニとられ死『玄蕃先代集』 4-5m 2.5-3.5m 白子・子母佐 現・白子町 4-5m 東浪見 現・一宮町 釣村より一ノ宮境めまで下通に居住仕候家数52軒打潰し男女子共137人死す『万覚書写』 6-8m 6.0-7.5m 小浜 現・いすみ市 倒家25軒、溺死9人『葛天日録』 4m 5.5-7.0m 岩船 現・いすみ市 倒家40軒、男女57人溺死す『葛天日録』 7m 御宿 現・御宿町 御宿郷ニテ男女38人余死ス『勝浦史』 6m 5.0-7.0m< 勝浦 現・勝浦市 新宮村と云う所にて、倒家17軒、男女9人溺死『葛天日録』 8m 八丈島 現・八丈町 谷ヶ里半迄浪入『八丈実記』 8-10m 知多半島 1-2m *『岩城領内大風雨大破洪水之節覚書』には「塩竈拾(尸勺)破損」という記録が現れるが、「塩竈」は海水をいれて塩を作る竃のことで地名ではなく、「家数218軒流倒候、男女44人溺死」は岩城領内の被害である。 『葛天日録』および『玉露叢』には水戸領内の浦々で潰家89軒、溺死36人、破損流船ともに大小353艘、岩沼領で流家490余、死者123人(人馬150、内馬27)と記される。その後毎日地震し、昼夜にかけて17-18度、20度に及んで震うという。 『八丈実記』および『八丈島及青ヶ島地災記録』には津浪が谷ヶ里まで上り、青ヶ島では船および水主1人浪に払われるとある。『叢有院実記』および『慶弘紀聞』には、「尾張海溢、時有三又光、自海出、飛西北」とあり、尾張で津波があり海より光が飛び出した様子の目撃談が記される。『玉露叢』によれば紀州にも津波があったという。
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地震津波の記録
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郷土史家矢富熊一郎の著書『柿本人麻呂と鴨山』によれば万寿3年5月23日亥の下刻(ユリウス暦1026年6月10日22-23時頃、グレゴリオ暦1026年6月16日)、高津沖の石見潟が一大鳴動と共に鴨島が水中に没し、大津波が襲来したという。『翁小助問答記』には遠田に柏島と呼ばれる名島があり、鴨島と共に四海波によって打ち崩されたとある。 この大津波によって、高津川河口付近が特に大きな打撃を被り河口から約16km離れた寺垣内まで津波が遡上し、高津、中ノ島、中須の諸海岸が甚大被害であった。専福・安福・福王・妙福・蔵福のいわゆる五福寺はこの津波に押し流され潰滅に帰したという。津波被害は東は現・江津市黒松町付近から、西は現・萩市須佐付近に及ぶという。この津波の伝承は島根県大田市から益田市まで分布しており、「小鯛ヶ迫」、「舟超坂」、「鯨坂」など船や鯨などの打上げを示唆するような地名も存在する。 『石見八重葎』には、江田(現・江津市)付近の伝説として「万寿三年丙寅五月二十三日、古今の大変に長田千軒、此江津今の古江と申す所なり。民家五百軒余、寺社共に打崩す云々。」とある。また現・益田市遠田においては大津波が砂丘を崩して遠田八幡宮の社殿を倒壊、押流し、下遠の郷を浚い、中遠田の山野、草原を洗って貝崎に迫り南進して上遠田、黒石、滑堤の堤防まで押し迫り、引潮の際、低地住民の資材はことごとく流失した。 伝承や津波碑の碑文よる津波到達点の標高から、各地の津波遡上高が推定されている。 津波の被害状況地域推定波高・遡上高伝承遡上高持石 現・益田市高津町 神石が流された 18m 松崎 現・益田市高津町 人麻呂の木像が流れ着いた 23m 安富 現・益田市安富町 >16.2m 護宝寺 現・益田市横田町 護宝寺が流された 22m 船ヶ溢 現・益田市横田町 船が漂着した 21m 遠田八幡宮 現・益田市遠田町 砂丘は崩れ社殿が押流された『柿本人麻呂と鴨山』 10-12m 貝崎 現・益田市遠田町 水田に津波が到達した 22m 黒岩 現・益田市遠田町 津波石 25m 二艘船 現・益田市木部町 二艘の船が打ち上げられた 12.2m
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