紀年法
紀年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 05:13 UTC 版)
詳細は「日本書紀#紀年・暦年の構成」、「神武天皇即位紀元」、および「干支#干支による紀年」を参照 紀年について『日本書紀』は百済三書を参照または編入している。百済王に関しては薨御年と即位年も記されている。 神功皇后摂政55年(255年)百済の肖古王が薨御 神功皇后摂政56年(256年)百済の貴須王が即位 神功皇后摂政64年(264年)百済の貴須王が薨御 百済の枕流王が即位 神功皇后摂政65年(265年)百済の枕流王が薨御 百済の辰斯王が即位 ちなみに古事記では照古王が応神天応の時に貢物を奉げる逸話が書かれている。 肖古王、貴須王、枕流王、辰斯王は同じくそれぞれ朝鮮半島の正史である『三国史記』百済本紀の近肖古王(在位:346年 - 375年)、近仇首王(在位:375年 - 384年)、枕流王(在位:384年 - 385年)、辰斯王(在位:385年 - 392年)と考えられている。紀年が120年ずれているが、各王の在位期間がほぼ一致する。井上光貞も『日本書紀』の編者が神功皇后を卑弥呼に比定したため干支を二運繰り上げたという説を支持している。ただし井上秀雄は、百済記の年紀は干支だけの簡単なものでありそれだけでは絶対年代が確定せず、『日本書紀』も『三国史記』百済本紀も、それぞれの編者が独自に考証して絶対年代を付与したものであって、既存の伝承があった上でそれよりも上げたり下げたりしたわけではない、とみている。いずれにせよ年代がずれているだけなので、少なくとも神功皇后摂政紀においていわゆる二倍暦説は当てはまらない可能性が高い。 神功皇后55年に百済の肖古王(214年死亡)又は近肖古王(375年死亡)が死亡したことが日本書紀には書かれている。近肖古王の死亡時期を元にした年表だと神功皇后元年は321年になる。一方魏志を引用した明帝の景初三年、六月、倭女王が遣使の記述を元にした神功皇后元年は201年になる。肖古王と近肖古王の名前は似ていて干支も201年と321年は同じものなので日本書紀の編纂者が誤って近肖古王とその後の系図を当ててしまった可能性も大いにある。 ちなみに日本書紀の紀年をそのまま当てはめた戦前の説では肖古王、貴須王は肖古王(在位:166年 - 214年)、責稽王(在位:286年 - 298年)とされた。「貴須王」と「責稽王」には文字の差が大きいが、これもただの誤写だと片付けられていた。枕流王、辰斯王についてはどう考察しても時代が120年下る人物であるが、これは後代になっても百済が毎年貢物を奉じている旨を神功皇后の記事に挿入しただけであり、肖古王・責稽王の時期とは分ける必要がある。この部分については実は近肖古王を肖古王と勘違した事により書き込まれただけの可能性が大いにある。そのせいか丁度120年だけ時代がずれてしまっている。干支では同じ年代の表記になってしまう。 一方、新羅については『三国史記』新羅本紀の婆娑尼師今と、奈勿尼師今の子で倭国に人質として赴いた後に逃げ帰った未斯欣がそれぞれ『日本書紀』の波沙寐綿と微叱己知に該当すると思われるが、婆娑尼師今と奈勿尼師今では大きく時代が異なる。『三国史記』では新羅の未斯欣と百済の腆支(『日本書紀』では「直支(とき)」)はほぼ同時期に倭国の人質になっているが、『日本書紀』では微叱己知と直支の日本滞在は重ならず、80年もの差がある。
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