地震動
地震動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/06 07:01 UTC 版)
嘉永七年甲寅十一月五日庚午の申下刻(七ツ半)(1854年12月24日、日本時間16時半頃)、紀伊半島から四国沖を震源(北緯33.0°、東経135.0°)とする巨大地震が起きた。フィリピン海プレートがユーラシアプレート下に沈み込む南海トラフ沿いで起きた海溝型地震と考えられている。 当日、土佐は小春日和の快晴で、高知城下は南川原にて相撲巡業があり、見物客が群集をなすところに地震が襲い、一時大混乱に陥った。『桑滄談』の記録によれば土佐入野(現・黒潮町大方地区)においては、初めゆるゆる震い次第に強くなり、やがて激震になったという。 畿内では前日の東海地震に続いて「又々大地震」となり、特に河内平野において、若江(現・東大阪市)を中心に半径約4kmの範囲で家屋倒壊が見られ、震度6弱から最大震度6強と推定される場所が分布した。ここは弥生時代に河内湖が存在した場所に一致し、陸化して1000年以上経過しても地震の揺れが強く現れる場所として存在し続けた。三河吉田、田原および名古屋など前日に地震津波で甚大な被害となった東海地方各地でも、又々長い地震動に続いて西方から雷鳴が聞かれた。新居宿では暮六ツ時(17時頃)に地震少々震う内に日の入りとなり、申酉(西)の方から「どう/\/\」と鳴音が大雷の如くなりと記録されている(『安政大地震』新居町関所資料館)。 小浜(現・小浜市『続地震雑纂』)や尾鷲九鬼(現・尾鷲市『九木浦庄屋宮崎和右衛門御用留』)では地震動は南海地震より東海地震の方が強く感じられたが、那智勝浦(現・那智勝浦町『嘉永七年寅十一月 大地震洪浪記録書』)や湯浅(現・湯浅町『深専寺門前碑文』)・広(現・広川町『濱口梧陵手記』)では南海地震の方が強く感じられた。京都(現・京都市)では東海地震の方がやや強いか(『安政元寅年正月より同卯ノ三月迄御写物』)、ほぼ同程度で(『御広間雑記』)、大坂でも両地震の強さは同程度であり(現・大阪市『鍾奇斎日々雑記』)、破損の度合いを加えたが、南海地震では津波被害も加わった。 震度6と推定される領域は四国の太平洋側から紀伊水道沿岸部、淡路島、大阪平野および播州平野、震度4以上の領域は九州から中部地方に及び、震源域の長さは約400kmと推定される。 中国(当時は清王朝)でも有感だった。『中国地震歴史資料彙編』には江蘇粛県や嘉定(現在の上海市嘉定区)で「水溢地震」、上海で「黄浦水沸二三尺、嘉定、蘇州皆同」と記されており、震央から約1300km離れた上海付近でも有感であったという。津波が到達したとする説もあるが、長周期地震動によるセイシュが水面を動揺させた可能性もある。2日後の豊予海峡地震でも上海付近でかなり揺れたらしい。
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