人柄・性格など
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 06:45 UTC 版)
平岡定太郎は、各所で人望が厚かった。「原敬氏の乾分として奇才縦横の剛腹な手腕家として地方長官中にそうそうたる名声を博したる」、「威張らぬ人、役人臭くない人として令名嘖々たりき」と評されている。 定太郎の告別式には、商工大臣の藤原銀次郎(王子製紙社長)が参列した。藤原の香典は当時1万円(現在の約1、2千万円相当)という高額だった。定太郎が樺太庁官時代、三井物産にいた藤原は、定太郎の全面協力により瀕死状態だった王子製紙が再建されるなど多大な恩義を感じていたため、定太郎の死を知るやいなや多忙の中、焼香に駆けつけた。 息子・梓は、「僕の父は原敬さんの子分で樺太庁長官をやっていました」、「父はまったく大変な豪傑で、酒よし女よし、一世紀ぐらい時代ずれのした男でしたから、家庭経営にはおよそ不向きでありました」と記している。 野坂昭如によると、「細かい気くばりよりも、大雑把にひっつかみ、積極果敢にうって出る定太郎は、新天地の開拓にふさわしい器量才幹、だからこと、植民地経営に名を残し、樺太は豊原市郊外に巨大なその銅像が建立され、これは、徳を慕う現地の人たちの要望による」ものだったという。 板坂剛によると、樺太庁長官に就任した1908年(明治41年)、墓参りのため故郷の志方村に帰郷した際に60名以上の多数のお供を公費で同行させ、道路は改修させるわ、接待は強要するわで地元民はあきれ返ったという。 定太郎の座右の銘は、「盡人事待天命」であったという。ある時、定太郎の書いた「盡人事待天命」の書を見た孫・三島由紀夫は、「お祖父さんの字は実にうまい字ですね、感心した」と言って自宅に持ち帰った。自決の半月前の出来事だったという。梓は、「倅も祖父の字を気に入るような年になったんだな、と思いましたが、いま思うと倅はひそかに書の文句の方に感動したのに違いありません」と語っている。 樺太豊原市にあった樺太社発行の月刊誌『樺太』10周年記念号(昭和13年1月号)に、樺太庁長官時代をふりかえった定太郎の談話「樺太の持つ根本使命」が掲載された。 その当時儂(わし)はアメリカで発行されてゐる『二十世紀』といふ雑誌を読んでゐたが、その中にパルプといふことが書いてあつた。何かの都合で儂はパルプの輸送関係のことを見よつたのぢやが、パルプは木材から造るものらしいことだけは解つたが、一体どんなものかの見当はつかぬ。いろいろに想像して見ると粗末な紙のやうでもある。また写真等に使ふピカピカした光る紙、あれのやうでもある。(中略)こんな風でパルプについては何一つ智識がないのだが、唯木材をこのパルプにすれば、運賃は少くて済むやうであり、需要も今度相当にあるものらしいことだけは想像される。 — 平岡定太郎「樺太の持つ根本使命」 定太郎は、2年間の粘り強い交渉を経て、日本初のパルプ工場9つを、 三井、岩崎、大川の3大資本に3つずつうまく建設せしめた交渉の芝居の経緯を披露し、人を食うような大胆な交渉手腕があった面を見せている。 また、定太郎は同誌の中で、パルプ増産に絡む樺太材増伐問題が騒がれていた当時を振り返りながら、自分の去った後の樺太行政を批判し、「樺太の根本使命を見直せ」と最後に訴えている。 樺太なんていふものは最初から知れてゐる。早くいへば猫の額のやうなもので、雑巾で拭つて見たところで凡そ知れた面積だ。その中で木が無くなつたとか増伐の余地がないとかいつて騒いで見たところで、それが何の足しになる。儂は第一そんなちつぽけな根性が気に喰はぬ。(中略)樺太の使命は樺太の開発だけぢやない、日本の北方開発の為の停車場、それが樺太である。(中略)而も樺太は四方海ぢや。海の水はレールである。この四方にすき間なく敷き詰めたレールを利用して、この世界の何人も利用し得なくて今尚放置してあるこのオコツク附近の大森林を開発するのこそ、樺太の使命なんぢやらうが。(中略)今の人は儂の考へとはまるで逆だ。樺太内のこと位、どんなにやつて見ても、タカが知れてゐる。そんな根性だから、何一つ出来んのぢや。 — 平岡定太郎「樺太の持つ根本使命」 1914年(大正3年)1月1日の『樺太日日新聞』に定太郎の短歌が59首も、見開き2頁にも及び風景写真を織り交ぜて掲載されたという。定太郎の雅号は「臥石」。杉村孝雄著『樺太――暮らしの断層』にはその中から14首が収められている。 あめつちの 恵正しく 守りして 白菊こそや かをり床しき 鶏を はぐくむ人も 鶏に 養はれつゝ 暮らしけるかな 夕月の 頃ともいはし 卯の花の 垣根ばかりは 有明の月 秋たけて さよ風寒み 独り寝の 枕も虫の 声のみぞきく たち向ふ 鏡にはつる 時ごとの 心なりせば 人を恋めや などである。定太郎の短歌を紹介した『樺太日日新聞』主幹の山本喜市郎は、「予輩が臥石大守の短歌を珍重するのは其修辞技巧の妙に非ず、真情流露の赤裸々なる三十一文字の間猶よく大守の面目躍動し来るを悦ぶ也」と述べ、定太郎の素朴で大らかな人柄を褒めている。
※この「人柄・性格など」の解説は、「平岡定太郎」の解説の一部です。
「人柄・性格など」を含む「平岡定太郎」の記事については、「平岡定太郎」の概要を参照ください。
人柄・性格など
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 07:37 UTC 版)
家は清貧だった。 日露戦争後のポーツマス条約に反対して、日比谷焼き討ち事件では大暴れした。 大臣就任の際に大礼服を持たぬ又次郎は、知人から借用してその場をしのいだ。この話が新聞記者たちを喜ばせ、地元支持者たちにも伝わることとなったので、横須賀の人々がついに募金運動を始め、集まった金で“おらが野人先生”に大礼服を仕立ててあげた。こうしたエピソードが庶民派を印象づけ、又次郎の人気を広めたという。 純一郎は若い頃、ある記者から「おじいさんから政治の薫陶(くんとう)は受けましたか」と尋ねられ、「いや花札しか教わらなかった」と答えている。「ほかには」と問われると、平然として「歌舞音曲だ」と言った。この記者によれば、歌舞音曲好きの血は、小泉家全員に流れているという。「小泉家では一月の二日か三日に、全員で歌舞伎座に行くのが恒例となってます。これは、地元の横須賀事務所をまかせられている末弟の正也が、歌舞伎座の正月公演で三味線を弾いているからです。もちろん舞台の上のプロの芸ではなく、幕の裏で囃子(はやし)をつける素人の旦那芸です。何やかにやで百万円はかかるそうです。又次郎が任侠肌の人だったせいなのか、小泉家にはそんな玄人(くろうと)好みの血が流れているんです」。
※この「人柄・性格など」の解説は、「小泉又次郎」の解説の一部です。
「人柄・性格など」を含む「小泉又次郎」の記事については、「小泉又次郎」の概要を参照ください。
人柄・性格など
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 10:42 UTC 版)
趣味はテニス、洋画、スキー。宗教は曹洞宗。住所は米子市明治町。
※この「人柄・性格など」の解説は、「加藤章」の解説の一部です。
「人柄・性格など」を含む「加藤章」の記事については、「加藤章」の概要を参照ください。
人柄・性格など
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 02:52 UTC 版)
宗教は曹洞宗。趣味は乗馬、庭球。囲碁、将棋を好む。 容貌が哲学者の安倍能成に似ていた。
※この「人柄・性格など」の解説は、「足立正」の解説の一部です。
「人柄・性格など」を含む「足立正」の記事については、「足立正」の概要を参照ください。
- 人柄・性格などのページへのリンク