人柄・対人関係
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傾奇者であり、若年のころは派手な拵えの槍を持って歩いたので、「又左衛門の槍」といって人々から避けられていた(『亜相公御夜話』)。利家は晩年になっても多少とも傾奇の傾向のある若者を愛したという。 小姓時代には信長から寵愛を受け、衆道(男色)の相手も務めていたことが加賀藩の資料『亜相公御夜話』に「鶴の汁の話(信長に若いころは愛人であったことを武功の宴会で披露され皆に羨ましがられた時の逸話)」として残されている。同じく信長の小姓として有名な森成利(蘭丸)や堀秀政にも衆道を務めていたとの説が存在するものの、実際に衆道の有無を記した資料は殆ど存在しないため、この『亜相公御夜話』に記されたエピソードはとても珍しいものとされている。一方、乃至政彦はこの文章を単純に「不寝番として側近く仕えるほどに親しく接したことを誇っただけ」と見る仮説を立てている。 織田政権時代は同輩、豊臣政権時代では主となる秀吉とは、清洲時代に隣同士、安土時代に向かい同士の住居であったこともあってか、秀吉が足軽時代から夫婦共に親しく、天正2年(1574年)には子供のなかった秀吉夫婦に四女の豪姫を授ける程の関係であり、秀吉と敵対関係になった賤ヶ岳以降、家臣として秀吉に下った後も二人で灸をすえ合うなど友人関係を内密で続けたという。足軽あがりの秀吉と、傍流ながら豪族出身の利家は当初懸隔した身分であったが、一時利家が浪人したこともあって、同様な関係から追い越されていった織田家臣だちに比べてわだかまりが少なく、対等に近い友人関係からスムーズに主従関係へと転じていった。利家はその信頼から晩年の秀吉に意見できる、数少ない人物でもあった。また秀吉は遺言覚書の中で利家の性格を「律義者」であると呼びかけており、そのため秀頼の後見人を任せたと思われる。但し、利家の遺言状に豊臣家の名はなく、織田家の名前と織田家に対する忠義のみを記しているだけである。 豊臣政権では諸大名の連絡役などを務めたこともあり、多くの者達に慕われたという。秀吉側近の大野治長は「御位も国数も大納言様(利家)は下なれども、お城にて人々用ひ(人々の尊信)は、五雙倍にも大納言様つよく候。これは第一御武辺者なり。さてまた太閤様(秀吉)御前よき故にても候由、お城にても道中にても、内府(家康)より人々あがまへ、我らまでも心いさみ申す」と語っている(利家は家康より官位も領国石高も下だが、彼は武勲の者であり秀吉に信頼されているため、人望は利家のほうがはるかに大きい、という意)。なかでも傍輩衆の、蒲生氏郷、宇喜多秀家、浅野長政、毛利秀頼らから慕われたようである。 上記の者たちに留まらず、加藤清正・福島正則らに代表される武断派と呼ばれる者達からも尊われていた利家は、秀吉死後の石田三成や小西行長らの文治派と武断派との争いの仲裁役として働いた。なかでも清正は若き頃より武勇に優れていた利家を尊敬していたと言われ、事実、利家存命中は姻戚問題で利家邸、家康邸に各大名が集結する騒ぎとなった際も、姻戚問題を起こした当人にも関わらず利家邸に出席している。また利家が没すると、その直後に清正を含む武断派七将が、石田三成を襲撃する騒ぎが起こっている。 家康の法度破りで諸大名が家康・利家両邸に集まる騒ぎとなった際、利家を含む四大老・五奉行の9人と家康とが誓紙を交換し、一応の和解となり、両者の衝突を回避しようとする細川忠興、浅野幸長らの取り成しにより、利家が家康のもとを訪問することとなった。この時、利家は息子の利長に「秀吉は死ぬ間際まで秀頼様を頼むと言っていたのに、家康はもう勝手なことをしている、儂は家康に約束を守らせるために直談判に行く。話が決裂すれば儂はこの刀で家康を斬る。もし儂が家康に斬られたら、お前が弔い合戦をしろ」と言って伏見城に向かった。(利家公御夜話) 危篤の際には自ら経帷子を縫い、利家に着せようとするまつ(芳春院)が「あなたは若い頃より度々の戦に出、多くの人を殺めてきました。後生が恐ろしいものです。どうぞこの経帷子をお召しになってください」と言うと利家は、「わしはこれまで幾多の戦に出て、敵を殺してきたが、理由なく人を殺したり、苦しめたことは無い。だから地獄に落ちるはずが無い。もし地獄へ参ったら先に行った者どもと、閻魔・牛頭馬頭どもを相手にひと戦してくれよう。その経帷子はお前が後から被って来い」と言って着るのを拒んだといい(古心堂叢書利家公夜話首書)、一説には死の床でのあまりの苦痛に腹を立て割腹自殺をしたともいう。のちに徳山則秀からこの話を聞いた家康は「天晴れ」と賞賛したという(富田景周の『越富賀三州志』)。 加賀にはこのような歌が遺されている。「天下 葵よ 加賀様 梅よ 梅は葵の たかに咲く」 「三葉葵紋の徳川家よ 剣梅鉢紋の前田家よ 梅の花は葵より高い所に咲く」という意味である。家康と利家は秀吉の時代、五大老の一番の上座に肩を並べて座っていたが秀吉が死ぬと徳川家が天下をおさめる大将軍となった。前田家は大々名であるとはいえ、徳川家の家来にならなければならなかった。その時の運に対し、加賀の人々はその口惜しさを歌ったと伝えられている。 阿波隼人という老侍が利家に拝謁したとき、老齢で長袴のためつまずいて転んでしまった。それを見た家臣らは大笑いしたが、利家は「静まれ。老人とはこうした過ちが多いものだ。それなのに助けもせず笑うとは何ごとか。許せぬ。笑っていた者は切腹いたせ」と激怒した。家臣らは震え上がり、阿波も利家が自分をかばってくれたことに感謝するも切腹まではという気持ちもあり、利家に切腹命令を取り下げてもらうように嘆願したと伝わる(『明良洪範』)。 種村某という勇士が柴田氏にいた。利家は彼の武勇を認めて家臣にしたいと考えたが種村は応じなかった。利家は種村が琵琶好きだと聞いて、白雲という琵琶を贈って家臣になるよう誘った。種村も遂に折れて前田の家臣となり、佐々成政の朝日山合戦で大活躍した(『常山紀談』)。 佐々成政が末森城を攻めたとき、近習の戸田与五郎なる者が2人の豪族への出兵命令を伝える使者になった。しかし戸田は豪族の説得に手間取って遅参した。利家は激怒し、戸田は討死覚悟で手柄を立てた。利家は激怒することで戸田が面目躍如のために手柄を立てると計算していたのである(熊沢猪太郎の『武将感状記』)。 義理の甥である前田利益(慶次郎)とはソリが合わなかったと後年の逸話集などには記述されるが、同時代における史料や文書、利家の回顧録などにはその様なものはなく、利益に付き従った野崎知通による回顧録には利家の嫡子利長と利益が不仲であったとされる記述は存在する。また、利益出奔の際にイタズラで水風呂に入れられたとの逸話があるが、この逸話の初出は江戸後期の随筆集『翁草』であり、後年の創作である可能性が高い。 桶狭間の戦いの前年、普段から信長配下の武将に対して横柄な態度が多かったという信長お気に入りの茶坊主の拾阿弥が、利家佩刀の笄(こうがい、妻のまつからもらったものともいわれる)を盗み、利家を激怒させた。利家は拾阿弥を成敗すると言って聞かなかったが、信長の取り成しで一時はこれが収まり大事には至らなかった。しかし、その後も拾阿弥は利家に対し度重なる侮辱を繰り返したため、利家は許可なしに信長の面前で拾阿弥を斬殺し、織田家を出奔する。この事件は世に「笄斬り」とよばれる。後年、この時期のことを語る際は、必ず「落ちぶれているときは平素親しくしていた者も声をかけてくれない。だからこそ、そのような時に声をかけてくれる者こそ真の友人(信用できる人物)だ」と言っている。
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