人柄・対人関係とは? わかりやすく解説

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人柄・対人関係

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 13:46 UTC 版)

前田利家」の記事における「人柄・対人関係」の解説

傾奇者であり、若年のころは派手な拵え持って歩いたので、「又左衛門といって人々から避けられていた(『亜相公御夜話』)。利家は晩年になって多少とも傾奇の傾向のある若者愛したという。 小姓時代には信長から寵愛を受け、衆道男色)の相手務めていたことが加賀藩資料亜相公御夜話』に「の汁の話(信長若いころ愛人であったことを武功宴会披露され皆に羨ましがられた時の逸話)」として残されている。同じく信長小姓として有名な森成利蘭丸)や堀秀政にも衆道務めていたとの説が存在するものの、実際に衆道有無記した資料は殆ど存在しないため、この『亜相公御夜話』に記されエピソードはとても珍しいものとされている。一方乃至政彦はこの文章単純に不寝番として側近仕えるほどに親しく接したことを誇っただけ」と見る仮説立てている。 織田政権時代同輩豊臣政権時代では主となる秀吉とは、清洲時代隣同士安土時代向かい同士住居であったこともあってか、秀吉足軽時代から夫婦共に親しく天正2年1574年)には子供のなかった秀吉夫婦四女豪姫授ける程の関係であり、秀吉敵対関係になった賤ヶ岳以降家臣として秀吉下った後も二人で灸をすえ合うなど友人関係を内密続けたという。足軽あがりの秀吉と、傍流ながら豪族出身の利家は当初懸隔した身分であったが、一時利家が浪人したこともあって、同様な関係から追い越されていった織田家臣だちに比べてわだかまり少なく対等に近い友人関係からスムーズに主従関係へと転じていった。利家はその信頼から晩年秀吉意見できる、数少ない人物でもあった。また秀吉遺言覚書の中で利家の性格を「律義者」であると呼びかけており、そのため秀頼の後見人任せた思われる。但し、利家の遺言状豊臣家の名はなく、織田家の名前と織田家対す忠義のみを記しているだけである。 豊臣政権では諸大名連絡役などを務めたこともあり、多くの者達に慕われたという。秀吉側近大野治長は「御位も国数も大納言様(利家)は下なれどもお城にて人々用ひ人々尊信)は、五雙倍にも大納言様つよく候。これは第一武辺者なり。さてまた太閤様(秀吉御前よき故にても候由、お城にても道中にても、内府家康)より人々あがまへ、我らまでも心いさみ申す」と語っている(利家は家康より官位領国石高も下だが、彼は武勲の者であり秀吉信頼されているため、人望は利家のほうがはるかに大きい、という意)。なかでも傍輩衆の、蒲生氏郷宇喜多秀家浅野長政毛利秀頼らから慕われたようである。 上記の者たちに留まらず加藤清正福島正則らに代表される武断派呼ばれる者達からも尊われていた利家は、秀吉死後石田三成小西行長らの文治派武断派との争い仲裁役として働いたなかでも清正若き頃より武勇優れていた利家を尊敬していたと言われ事実、利家存命中は姻戚問題で利家邸、家康邸に各大名集結する騒ぎとなった際も、姻戚問題起こした当人にも関わらず利家邸に出席している。また利家が没すると、その直後清正を含む武断派七将が、石田三成襲撃する騒ぎ起こっている。 家康法度破り諸大名家康・利家両邸に集まる騒ぎとなった際、利家を含む四大老五奉行の9人と家康とが誓紙交換し、一応の和解となり、両者衝突回避しようとする細川忠興浅野幸長らの取り成しにより、利家が家康のもとを訪問することとなった。この時、利家は息子の利長に「秀吉は死ぬ間際まで秀頼様を頼むと言っていたのに、家康はもう勝手なことをしている、儂は家康約束守らせるために直談判に行く。話が決裂すれば儂はこの刀で家康斬る。もし儂が家康に斬られたら、お前が弔い合戦をしろ」と言って伏見城向かった。(利家公御夜話) 危篤の際には自ら経帷子縫い、利家に着せようとするまつ(芳春院)が「あなたは若い頃より度々の戦に出、多くの人を殺めきました後生恐ろしいものです。どうぞこの経帷子お召しになってくださいと言うと利家は、「わしはこれまで幾多の戦に出て、敵を殺してきたが、理由なく人を殺したり苦しめたことは無い。だから地獄落ちるはずが無い。もし地獄参った先に行った者どもと、閻魔牛頭馬頭どもを相手にひと戦してくれよう。その経帷子はお前が後から被って来いと言って着るのを拒んだといい(古心堂叢書利家公夜話首書)、一説には死の床でのあまりの苦痛腹を立て割腹自殺をしたともいう。のちに徳山則秀からこの話を聞いた家康は「天晴れ」と賞賛したという(富田景周の『越富賀三州志』)。 加賀にはこのような歌が遺されている。「天下 加賀の たかに咲く」 「三葉葵紋の徳川家よ 剣梅鉢紋の前田家梅の花より高い所に咲く」という意味である。家康と利家は秀吉の時代五大老の一番の上座に肩を並べて座っていたが秀吉が死ぬと徳川家天下をおさめる大将軍となった前田家大々名であるとはいえ徳川家家来にならなければならなかった。その時の運に対し加賀人々はその口惜しさを歌った伝えられている。 阿波隼人という老侍が利家に拝謁したとき、老齢長袴のためつまずいて転んでしまった。それを見た家臣らは大笑いしたが、利家は「静まれ。老人はこうした過ちが多いものだ。それなのに助けもせず笑うとは何ごとか。許せぬ。笑っていた者は切腹いたせ」と激怒した家臣らは震え上がり阿波も利家が自分かばってくれたことに感謝する切腹まではという気持ちもあり、利家に切腹命令取り下げてもらうように嘆願したと伝わる(『明良洪範』)。 種村某という勇士柴田氏にいた。利家は彼の武勇認めて家臣にしたいと考えた種村応じなかった。利家は種村琵琶好きだ聞いて白雲という琵琶贈って家臣になるよう誘った種村遂に折れて前田家臣となり、佐々成政朝日山合戦大活躍した(『常山紀談』)。 佐々成政末森城攻めたとき、近習戸田与五郎なる者が2人豪族への出兵命令伝え使者になった。しかし戸田豪族説得手間取って遅参した。利家は激怒し戸田討死覚悟手柄立てた。利家は激怒することで戸田面目躍如のために手柄立てると計算していたのである熊沢太郎の『武将感状記』)。 義理の甥である前田利益(慶次郎)とはソリが合わなかったと後年逸話集などには記述されるが、同時代における史料文書、利家の回顧録などにはその様なものはなく、利益付き従った野崎通による回顧録には利家の嫡子利長と利益不仲であったとされる記述存在するまた、利益出奔の際にイタズラ水風呂入れられたとの逸話があるが、この逸話初出江戸後期随筆集翁草』であり、後年創作である可能性が高い。 桶狭間の戦い前年普段から信長配下武将に対して横柄な態度多かったという信長お気に入り茶坊主拾阿弥が、利家佩刀の笄(こうがい、妻のまつからもらったものともいわれる)を盗み、利家を激怒させた。利家は拾阿弥成敗すると言って聞かなかったが、信長取り成し一時はこれが収まり大事には至らなかった。しかし、その後拾阿弥は利家に対し度重なる侮辱繰り返したため、利家は許可なしに信長面前拾阿弥斬殺し、織田家出奔する。この事件世に「笄斬り」とよばれる後年、この時期のことを語る際は、必ず「落ちぶれているときは平素親しくしていた者も声をかけてくれないだからこそそのような時に声をかけてくれる者こそ真の友人信用できる人物)だ」と言っている。

※この「人柄・対人関係」の解説は、「前田利家」の解説の一部です。
「人柄・対人関係」を含む「前田利家」の記事については、「前田利家」の概要を参照ください。

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