人柄・人物評
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 18:10 UTC 版)
短気 非常に短気で、些細なことでも癇癪を起こして怒鳴り散らす性格から、産経新聞は「イラ菅」と呼ばれていると報じた。 朝日新聞の北沢卓也は、すぐに爆発する「イラ菅」から、じっと黙って我慢する「ダマ菅」に変身した。と報じた。 産経新聞は、首相就任後の2010年6月11日、「所信表明演説について、具体性がないと言う批判があるが?」と記者団から質問され、一変した険しい表情で「何の批判か?」「何故批判が出ているのか?」などと、逆に記者を問い詰めた、と報じた。 非世襲政治家 村山富市以来の、政治家一族出身ではない「非世襲」の首相とされるが、祖父である菅實は地元の議員を務めていた。「たたき上げ政治家として、世襲の『お坊ちゃま首相』とは違う、たくましさを見せてほしい」(中堅)と期待する声がある。仙谷由人は菅を「地盤(後援組織)、看板(知名度)、カバン(資金)なく、まったく無名の青年が言葉と政局観、政治観で、ここまでこられた」と評している。「合法的に特許業務可能な職業経験者たる日本国総理大臣」は菅以外では弁護士経験者の初代日本社会党委員長片山哲と初代自民党総裁鳩山一郎のみである。 早野透によれば、政治家としての変わり身の早さや巧みな政界遊泳術を持つ「バルカン政治家」(欧州の火薬庫といわれ駆け引きにあけくれたバルカン半島にちなむ)「バル菅」とも称された。好きな偉人に高杉晋作を挙げて「高杉を一番好きな理由は、逃げ足が速いことなんだ。当時の長州は勤王派がとったり、佐幕派がとったりしたでしょ。代わるたびに腹を切らなきゃいけないんじゃね。潔く腹を切るのは、一見いいけれども、それはあきらめだ。」 と語ってもいる。 夫人の伸子は「することはきっちりやってくれる人。いざという時に頼りになる人」と評している。 「菅語」 古くからの友人である伊藤雄一郎によると、菅は「もうだめだ」「嫌だ」といった否定の言葉を嫌い、他人の意見が気に入らないなら自分はどう考えるのか建設的に話せと言うのが口癖だという。 震災や原発事故の対応について毎日新聞の岩見隆夫は「不都合な発言ならなかったことにしていい、とでも考えているのか」と批判したり、産経新聞の阿比留瑠比は「歩く風評被害」と揶揄し「『思いつき』だけの軽はずみな発言を続ける」 などの批判がある(#東日本大震災も参照)。これら発言は菅語とも呼ばれる。 市川房枝・その関係者らとの逸話と対立 1974年の参議院選挙で、市川房枝の選挙事務長を務めた。市川は著書『私の国会報告』において「自力で闘いなさいと言っていたが、菅は選挙で私の名前をいたる所で使い、私の選挙名簿を利用してカンパや選挙運動への協力を要請強要していたらしく、私が主張し実践してきた理想選挙と大分異なっていた」と批判した。1980年衆参同日選挙で社民連合新人候補の菅は、参院全国区で無所属現職で出馬した市川を支援せず、元日本社会党の社民連候補である秦豊を支援した。しかし、その後も菅や菅の関係者らが市川の名を持ち出すことに市川側から批判が出ている。 作家の有吉佐和子は、1974年に数寄屋橋で菅の演説を聴いていた時に支持者から「市川房枝の擁立が駄目だった時には有吉を担ごう」と菅が言っていたと聞かされ、「私は背筋がぞうっとした。(中略)私は彼らから嫌われる存在にならなければいけない。そう思い決めた。」と『複合汚染』の中で記している。 市川房枝の秘書をしていた紀平悌子は「市川さんは菅氏を評価しているのか」と聞かれた際、「何を言っているの。市川さんは『菅はよくない』と本当に怒っているわ」と答えた。紀平悌子の弟である佐々淳行は姉から菅批判を聞いていたために、2011年に菅が総理大臣になった際に「市川さんは菅氏に利用するだけ利用されて、いま生きておられたら本当に不愉快だったろう」と指摘した。
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