九州平定
九州平定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/17 03:01 UTC 版)
3代将軍足利義満時代の建徳元年/応安3年(1370年)頃に、管領の細川頼之から渋川義行の後任の九州探題に推薦され、正式に任命された。観応の擾乱後に南朝方の菊池武光が征西大将軍懐良親王を奉じた征西府、尊氏の庶子(直義の養子)である足利直冬等が分立し、征西府が筑前の少弐頼尚を撃破して大宰府を占領し、南朝勢力が強くなっていた九州の平定のために派遣される。 本国・遠江で準備をした後、10月に京都を出発、建徳2年/応安4年(1371年)5月に安芸に留まり、毛利元春、吉川経見、熊谷直明、長井貞広、山内通忠ら国人衆を招集している。同年12月に九州へ渡り、豊前へ至った。 了俊は周防・長門の大内弘世、義弘父子等の協力も得て新興の国人勢力と連絡し、阿蘇惟村の協力を得て豊後に嫡男の貞臣を田原氏能と共に豊後高崎山城に入り込ませ、弟の仲秋は松浦党の協力を得て肥前から大宰府を攻め、了俊自身の兵は豊前から大宰府を攻めた。文中元年/応安5年(1372年)6月には懐良親王、菊池武光等を筑後高良山(福岡県久留米市)から菊池氏本拠の肥後隈部城まで追い、南朝勢力から大宰府を奪回し、北朝方の拠点とした。 この後戦局は肥後へ移り、文中3年/応安7年(1374年)7月、水島まで出兵した。天授元年/永和元年(1375年)、水島での会戦に備えて勢力結集をはかり、九州三人衆と呼ばれる豊後の大友親世、筑前の少弐冬資、大隅の島津氏久らの来援を呼びかけた。三人衆のうち唯一九州探題と対立していた少弐冬資は着陣を拒んだが、島津氏久の仲介で来陣した。水島の陣において了俊は宴の最中に冬資を謀殺する挙に出た。この水島の変により氏久は離反して帰国、島津氏は了俊の九州経営に抵抗するようになった。また、大友親世も探題に対して嫌疑を抱き、了俊への支援を止めてしまった。 九州の有力大名の離反によって一転して窮地に陥った了俊は、同盟関係にあった大内氏に協力を要請する。これに対して大内弘世は難色を示したが、子の義弘は了俊を支持し、九州に援軍を派遣している。また、大内氏と婚姻関係のあった大友親世も消極的ではあったが北朝方に帰順した。水島の変から2年後の天授3年/永和3年(1377年)には菊池武朝・阿蘇惟武ら南朝勢力と肥前蜷打で激突。戦いは北朝方の大勝に終わり、南朝方の有力武将を多数討ち取った(肥前蜷打の戦い)。一方、この頃から了俊は、右手の中風に悩まされるようになった。 蜷打の戦い以降、了俊は再び南朝方に対する攻勢を強め、弘和元年/永徳元年(1381年)には武朝を本拠地隈部城から追放している。南九州に下った氏久と甥の島津伊久に対しては5男の満範を派遣して南九州国人一揆を結成させ、弘和元年10月に帰順させている。元中8年/明徳2年(1391年)に八代城の名和顕興と征西大将軍良成親王を降伏させ、元中9年/明徳3年(1392年)の南北朝合一を機に武朝と和睦し、九州南朝勢力を帰順させて九州平定を果たした。 但し、氏久と伊久は天授3年にも1度降伏しているが、これは満範が国一揆を率いて日向都之城主北郷義久を攻める直前だったためである。都之城の包囲が解かれた後に氏久は国人一揆の調略を行い、了俊の元へ参陣して来なかったので、天授4年/永和4年(1378年)3月に両者は決裂。満範に都之城の再包囲を命じたが、翌天授5年/康暦元年(1379年)3月1日と3月3日に志布志城から後詰に来た氏久に敗れて都之城から撤退した(蓑原の合戦)。南北朝合一後も氏久の息子元久と対立、了俊は応永元年(1394年)に4男の尾崎貞兼を南九州に派遣したが、翌年に九州探題を解任されたため、島津氏討伐は失敗に終わった。 外交では懐良親王を指すとされている「日本国王良懐」を冊封するために派遣された明使を抑留し、日明交渉を将軍足利義満の手に委ねた。また、高麗の使者鄭夢周とも接触して独自の交渉を行い、元中9年に李氏朝鮮が成立しても交渉を継続した。これにより、大内氏にも呼びかけて倭寇(前期倭寇)を鎮圧し、倭寇に拉致された高麗人の送還などを行い、『大蔵経』を求めるなどの善隣政策を推進した。
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