肥後へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/28 12:54 UTC 版)
文禄朝鮮出兵の時、加藤清正は異国での死を覚悟して3人の娘の養育を、板坂法印に依頼しその見返りに恩賞を清正が問うが恩賞を辞退。けれど遂に固辞しえず、朝鮮にある医学書・漢籍文献を所望した。子の板坂宗高(卜斎)は、まもなく辞して徳川家康に仕え、『板坂卜斎覚書』『慶長年中卜斎記』などを著した。孫の板坂友閑は、医を以て豊前小倉藩の第2代藩主・小笠原忠雄に仕えた。
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