肥後国人一揆
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/23 05:35 UTC 版)
肥後国人一揆(ひごこくじんいっき)は、天正15年(1587年)に勃発した肥後国人による一揆である。肥後国衆一揆(ひごくにしゅういっき)とも言う。
- ^ 甫庵太閤記によると、6月6日に秀吉は成政に、3年間検地や普請役を猶予し、国人が一揆を起こさないよう配慮せよとする定書を与えたとするが、この定書の宛名は「佐々内蔵助」となっており、実在するか疑わしい。5月晦日付の相良長毎・大矢野種基宛の朱印状では秀吉は成政を「羽柴陸奥守」、6月2日付の成政宛書状では「羽柴肥後侍従との」と記しているからである。『熊本県の歴史』(1999年)p.151
- ^ 大山智美「中近世移行期の国衆一揆と領主検地-肥後国衆一揆を素材として」『九州史学』164号、2012年/所収:萩原大輔 編著『シリーズ・織豊大名の研究 第十一巻 佐々成政』戎光祥出版、2023年。2023年、P274-276・279-283.
- ^ 大山智美「中近世移行期の国衆一揆と領主検地-肥後国衆一揆を素材として」『九州史学』164号、2012年/所収:萩原大輔 編著『シリーズ・織豊大名の研究 第十一巻 佐々成政』戎光祥出版、2023年。2023年、P288-290.
- ^ a b 小和田(2006)p.213
- 1 肥後国人一揆とは
- 2 肥後国人一揆の概要
- 3 背景
- 4 脚注
肥後国人一揆
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/31 19:09 UTC 版)
肥後国人一揆が起こった際には芸州衆からなる第二陣の将として・粟屋・古志・伊勢・小田・日野ら毛利家臣の兵を率いて小早川秀包・立花宗茂・鍋島直茂・筑紫広門らの第一陣に続いた。第一陣諸将と共に辺春親行、和仁親実の籠る田中城を攻めた際には辺春氏を内応させて落城に導いたほか、 一揆の盟主・隈部親永を降伏させる。 天草五人衆のひとり志岐麟泉の人質を受け取るなど有力国人たちを調略。 大田黒城の大津山家稜を講和と偽り誘い出し、吉地浄満院での宴の最中に佐々成政の家臣に家稜を刺殺させ大津山氏を滅ぼす。 降伏した内空閑鎮房を柳川城での桃の節句の宴に呼び寄せて謀殺。 近隣諸氏に牧野城に拠った内空閑鎮照を討伐させる。 など参謀・謀将として活躍した(「肥後古城物語」ほか)。戦後は佐々成政、和仁親実らの助命を嘆願するが、果たせなかった。
※この「肥後国人一揆」の解説は、「安国寺恵瓊」の解説の一部です。
「肥後国人一揆」を含む「安国寺恵瓊」の記事については、「安国寺恵瓊」の概要を参照ください。
肥後国人一揆と同じ種類の言葉
固有名詞の分類
- 肥後国人一揆のページへのリンク