下野街道とは? わかりやすく解説

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下野街道

名称: 下野街道
ふりがな しもつけかいどう
種別 史跡
種別2:
都道府県 福島県
市区町村 南会津郡下郷町
管理団体
指定年月日 2002.03.19(平成14.03.19)
指定基準 史6
特別指定年月日
追加指定年月日
解説文:  下野街道は,江戸時代整備され会津若松城下から下野今市に至る全長130km余り街道で,南山通りともいい,関東側では会津西街道呼んだ会津から江戸へ最短の道で,会津藩年間数万俵にも及ぶ江戸廻米の輸送路でもあり,会津藩北越後の新発田藩村上藩出羽庄内藩米沢藩などの参勤交代にも使用され主要な街であった
 下野街道の整備本格化するのは,寛永20年(1643)に保科松平)正之が会津藩移封されてからである。会津藩正史の『家世実紀によれば,正之は正保元年(1644)に江戸参勤日光社参のためにこの街道を使用し以後二代目正経合わせる20数回使用している。天和3年(1683)の地震による山崩で,参勤交代及び廻米輸送白河ルート変更されたが,これ以降天領南山御蔵入領の年貢米坂下煙草,麻,木地などの輸送や,今市経由して会津地方へ塩を運ぶ道として利用されるなど,物流中心街道として機能し続けた明治17年(1884),福島県三島通庸により下野街道に代わる新道設置されたことに伴い物資輸送路として機能急速に衰退していった。
 下野街道に関する文献としては,江戸後期地理学者である古川古松軒『東遊雑記』吉田松陰の『東北遊日記』,明治11年会津地方旅行した英国婦人イザベラバード『日本奥地紀行』などの著名な紀行文がある。下郷町域の下野街道は延長22kmに及び,そのうち10km程が旧状を良く留めている。昭和56年重要伝統的建造物群保存地区選定受けた大内宿は,江戸時代街道宿場町面影を今に留めている。昭和58年度に福島県教育委員会による「歴史の道調査」が実施され平成7年度から11年度に文化庁補助による「歴史の道整備事業が行われた。
 下野街道は,江戸前期には会津藩参勤交代江戸廻米に使用され主要街道であり,江戸中期以降会津地方関東を結ぶ物流道として重要な役割果たした。よって境界の確定できた約10km古道と三郡境の塚,茶屋跡,一里塚馬頭観世音碑などの関連遺跡史跡指定し保護図ろうとするものである

下野街道は,江戸時代整備され会津若松城下から下野今市に至る延長130km余り街道で,南山通り日光街道ともいい,関東側では会津西街道呼んだ会津から江戸へ最短の道で,会津藩年間数万俵にも及ぶ江戸廻米の輸送路でもあり,会津藩北越後の新発田藩村上藩出羽庄内藩米沢藩などの参勤交代にも使用され主要な街であった
 下野街道の整備本格化するのは,寛永20年(1643)に保科松平)正之が会津藩移封されてからである。会津藩正史の『家世実紀によれば,正之は正保元年(1644)に江戸参勤日光社参のためにこの街道を使用し以後二代目正経合わせる20数回使用している。天和3年(1683)の地震による山崩通行困難となり,参勤交代廻米輸送白河ルート変更されたが,これ以降天領南山御蔵入領の年貢米坂下煙草,麻,木地などの輸送や,今市経由して会津地方へ塩を運ぶ道として利用されるなど,物流中心街道として機能し続けた明治17年(1884),福島県三島通庸により下野街道に代わる新道設置されたことに伴い物資輸送路として機能急速に衰退していった。
 下野街道に関する文献としては,江戸後期地理学者である古川古松軒の『東遊雑録』,吉田松陰の『東北遊日記』,明治11年会津地方旅行した英国婦人イザベラバード『日本奥地紀行』などの著名な紀行文がある。下郷町域の下野街道は延長約22kmに及び,そのうち10km程が旧状を良く留めている。昭和56年重要伝統的建造物群保存地区選定受けた下郷町大内宿は,江戸時代街道宿場町面影を今に留めている。昭和58年度に福島県教育委員会による「歴史の道調査」が実施され平成7年度から11年度に文化庁補助による「歴史の道整備事業が行われた。
 下野街道は,江戸前期には会津藩参勤交代江戸廻米に使用され主要街道であり,江戸中期以降会津地方関東を結ぶ物流道として重要な役割果たした。よって境界の確定できた約10km古道と三郡境の塚,茶屋跡,一里塚馬頭観音碑などの関連遺跡史跡指定し保護図ろうとするものである

会津西街道

(下野街道 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/09 15:57 UTC 版)

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大内峠と大内宿の間にある一里塚
大内宿と氷玉峠の間にある大内峠、戊辰戦争で激戦地となった。会津側から望む。

会津西街道(あいづにしかいどう)は、江戸時代会津藩主・保科正之によって整備された、会津の若松城下から下野の今市に至る街道。会津からは下野街道(しもつけかいどう)とも、日光街道とも、江戸街道とも、南山通りとも呼ばれた。

概要

経路は福島県会津若松市から栃木県日光市今市(旧今市市)までの全長130キロメートルに及び、現在の福島県道131号下郷会津本郷線国道121号に沿っている。会津西街道は関東側からの呼称で、会津側からは下野街道、あるいは南山通り(みなみやまどおり)とも称されていた。江戸時代には会津藩新発田藩村上藩庄内藩米沢藩などの参勤交代江戸会津以北を結ぶ物流の道として重要な街道であった。

1884年(明治17年)、会津西街道に代わる新道、会津三方道路(国道121号の前身)が整備されたことに伴い、主要街道としての機能は衰退していった。

史跡指定

街道筋にある大内宿には往時の町並みや建造物が残されており、1981年(昭和56年)に重要伝統的建造物群保存地区として選定されている。また、氷玉峠(福島県下郷町、会津若松市および会津美里町の境界付近)から大内峠、大内宿、倉谷宿を経て国道121号にある楢原宿に至る経路には石畳などの旧街道の跡が残されている。

下郷町域の旧街道は延長約22キロメートルに及び、このうち大内宿を中心とした約10キロメートルが旧状をよく留めている。この古道と三郡境の塚、茶屋跡、一里塚、馬頭観世音碑などの関連遺跡が、2002年(平成14年)3月19日に下野街道として国の史跡に指定されている。

宿場

若松城下 - 福永宿 - 関山宿 - (氷玉峠) - (大内峠) - 大内宿 - (中山峠) - 倉谷宿 - (八幡峠) - 楢原宿 - 田島宿 - 川島宿 - 糸沢宿 - (山王峠)- 横川宿 - 中三依宿 - 五十里宿 - 高原新田宿 - 藤原宿 - 大原宿 - 高徳宿 - 大桑宿 - 今市宿( - 日光、江戸方面)

玉光堂の地蔵さまと腰掛けの松伝説

会津西街道沿いの泉現寺境内に、玉光堂子安地蔵尊がまつられているが、もともとは極楽地蔵尊であり、以下の伝説が残されている。 江戸時代の中期、通りかかった殿様の一行がここで休憩した。当時は地蔵尊の裏に清水がわき、腰掛けの松という老木が日陰をつくっていた。日陰で冷たい清水に上機嫌の殿様が2口目を飲もうとすると、突然マツケムシが茶碗に落下した。怒った殿様が茶碗を投げ捨てるなり、腰掛けの松の伐採を命じ、あっという間に腰掛けの松は切り倒されてしまったのである。せいせいした殿様一行であろうが、お城に着くなり殿様は気分が悪くなり寝込んでしまった。それどころか日に日に殿様の容態は悪化し命すら危なくなったという。家来が藁にもすがる思いで、良くあたるという陰陽師を呼びつけ祈祷してもらったところ、玉光堂の地蔵さまが現れ、腰掛けの松を切った仏罰であると判明。思い当たった殿様は直々に参詣して土下座のうえお詫びし、ようやく許しを得たという。後に全快の御礼として寄進した家紋入りの鬼瓦が葺かれており、今も見ることができる。

会津中街道

1683年天和3年)の日光大地震により鬼怒川支流の男鹿川が土砂で堰き止められ天然ダムの「五十里湖」が形成された。会津西街道は水没して通行不能になり、会津藩3代藩主松平正容によって1695年(元禄8年)に代替街道として会津中街道が整備された。しかし会津中街道は会津西街道が再整備されると次第に使われなくなっていった。

会津西街道を通行止めにしていた自然湖である五十里湖はその後1723年享保8年)の大雨で決壊し、死者1200人を出す土石流となり、宇都宮、真岡近辺まで被害が及んだ。

ギャラリー

参考文献

  • 会津の街道p17,p227-244
  • 詳解会津若松城下絵図-p162,江戸街道37次(野口信一監修)
  • 北会津の昔ばなしと伝説p183-185(北会津村教育委員会)
  • むかし話ー民話伝説集p107-109(歴史春秋社)
  • 会津の歴史伝説(とっておきの50話)小島一男書p167-170(歴史春秋社)

関連項目

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