ピッグスわん‐じけん【ピッグス湾事件】
読み方:ぴっぐすわんじけん
1961年4月、米国がカストロ政権の転覆を狙ってキューバに侵攻した事件。CIAの支援を受けた亡命キューバ人部隊が、本島南岸のコチーノス湾に上陸したが、3日間の戦闘の末、キューバ軍に撃退され、作戦は失敗に終わった。ピッグス湾はコチーノス湾の米側の呼称。コチーノスはスペイン語で豚の意。
[補説] 1959年1月のキューバ革命後、カストロ政権は東側諸国との連携を強め、社会主義的な改革を推進。産業を国有化し、米系企業の資産を接収したことから、米国は1960年1月、キューバとの国交を断絶した。侵攻作戦はアイゼンハワー政権下で計画され、ケネディ政権下で実行された。事件後、カストロは、キューバ革命が社会主義革命であったと宣言。ソ連との友好関係を深める中、1962年、同国への核ミサイル配備をめぐって米ソが対立するキューバ危機が起きた。
ピッグス湾事件
ピッグス湾事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 18:11 UTC 版)
これに先立つ1960年3月、キューバのソ連への接近を憂慮したアイゼンハワー大統領とCIAは、カストロ政権転覆計画を秘密裏に開始した。キューバ革命で母国を脱出してきた亡命者1,500人を「解放軍」として組織化し、1954年にCIAが主導した「PBSUCCESS作戦」により親米軍事政権が成立していたグアテマラの基地において、ゲリラ戦の訓練を行った。アメリカの軍事援助と資金協力の下でキューバ上陸作戦を敢行させるためであった。 アイゼンハワーはすでに退任間近だったためこのキューバ問題から手を引き、その後はリチャード・ニクソン副大統領とCIAのアレン・ダレス長官らによって作戦計画は進められた。 そして、兵員数と物資で圧倒的に劣勢であった反カストロ軍がキューバ政府軍に勝つためには、アメリカ軍の介入が必要と見たCIAは作戦計画にこれも組み入れていた。表面的には亡命した反カストロ軍が故国キューバの独裁政権を倒しカストロを追放するという目的はそのままであったが、元の計画ではキューバ国内での反政府グループの支援を見込んで、またカストロ体制がまだ盤石ではないと予測していた。 そして1960年11月の大統領選挙で当選し1961年1月20日にジョン・F・ケネディが大統領に就任すると、カストロ政権転覆計画をCIAと軍部から説明を受けた。この時に「あくまでアメリカ軍が直接介入するのではなく、CIAの援助のもとに亡命キューバ人が組織した反カストロ軍が進める作戦」として説明を受けたケネディはその通りに理解し、アメリカ軍の正規軍が直接介入しないことを条件に作戦を許可した。作戦は2つの段階があり、最初の4月15日に、「払い下げ品の」旧型のアメリカ軍の爆撃機を仕立てた亡命キューバ人部隊が、キューバ空軍の飛行場を爆撃し壊滅させて制空権を奪い、4月17日にピッグス湾(コチーノス湾)に艦船の援助を受けて上陸作戦を実行する予定であった。 ところが、4月15日に行われた最初の空爆作戦が失敗、制空権を確保できないまま、4月17日に1400人の亡命キューバ人部隊がピッグス湾に上陸した時に、上陸を予想したキューバ政府軍の反撃に遭い、さらに空からキューバ空軍の攻撃を受け、沖合に待機した艦船が撃沈、弾薬も食糧も欠乏する事態の中で海岸で部隊は孤立してしまった。 ここで当初「正規部隊は介入しない」と軍とCIAはケネディ大統領に説明していたにも拘らず、亡命キューバ人部隊の劣勢を受けて「状況を挽回するために正規軍を介入させたい」と軍が主張するも彼は拒否、結局亡命キューバ人部隊は1189名が捕虜となり、114名が戦死するなどして壊滅、作戦は完敗に終わった。さらに、最初の爆撃にアメリカ軍の正規軍が関わっていることが明らかになって、世界からアメリカに非難が集中した。 この「ピッグズ湾事件」の直後の4月28日に、ケネディは「西半球における共産主義者とは交渉の余地がない」としてキューバに対する経済封鎖の実施を発表した。なおアメリカのこれらの軍事侵攻や経済制裁の実施を受けて、キューバ政府は先の革命が社会主義革命であることを宣言しアメリカの挑発に答えた。1962年初めに米州機構から追放された。
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