独裁政治
独裁政権
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 14:25 UTC 版)
詳細は「ナチ党の権力掌握」を参照 内閣発足の2日後に当たる2月1日に議会を解散し、国会議員選挙日を3月5日と決定した。2月27日の深夜、国会議事堂が炎上する事件が発生した(ドイツ国会議事堂放火事件)。ヒトラーとゲーリングは「共産主義者蜂起の始まり」と断定し、直ちに共産主義者の逮捕を始めた。翌28日には大統領ヒンデンブルクに要請して憲法の基本的人権条項を停止し、共産党員などを法手続に拠らずに逮捕できる大統領緊急令を発令させた。 この状況下の3月5日の選挙で、ナチ党は議席数で45%の288議席を獲得したが、単独過半数は獲得できなかった。しかし、共産党議員はすでに逮捕・拘禁されており、さらにSDPや諸派の一部議員も逮捕された。これらの議員を「出席したが、投票に参加しない者と見なす」ように議院運営規則を改正したことで、ナチ党は憲法改正的法令に必要な3分の2の賛成を自動的に獲得できるようになった。 3月21日、新国会が開かれた。この日は「ポツダムの日」と呼ばれ、1871年に帝国宰相ビスマルクが最初の帝国議会を開いた日でもあった。これを記念する式典では、空席の皇帝の座の後ろに元皇太子ヴィルヘルムが着席した。元皇太子が見届ける中で、ヒトラーはモーニング姿で大統領であるヒンデンブルクに頭を下げた。この演出によって、ヒトラーが帝政の正統な後継者であるかのような印象が人々に与えられた。 3月24日には国家人民党と中央党の協力を得て、新国会で全権委任法を可決させ、議会と大統領の権限は完全に形骸化した。7月14日にはナチ党以外の政党を禁止し、12月1日には党と国家が不可分の存在であるとされた。以降ドイツではナチ党を中心とした体制が強化され、党の思想を強く反映した政治が行われるようになった。しかし、他の幹部とは異なる政権構想を持っていた突撃隊ではさらなる「第二革命」を求める声が高まり、突撃隊幕僚長レームらとの対立が深刻化した。業を煮やしたヒンデンブルクや国軍からの最後通告を食らったヒトラーは、ゲーリングや親衛隊全国指導者ヒムラーらによって作成された粛清計画を承認し、1934年6月30日、突撃隊幹部のほか、シュトラッサーらナチス左派などの政敵をまとめて非合法的手段で粛清した(長いナイフの夜)。この時、党草創期からの付き合いであったレームの逮捕にはヒトラー自らが立ち会っている。 1934年8月2日、大統領のヒンデンブルクが在任のまま死去した。ヒトラーは直ちに「ドイツ国および国民の国家元首に関する法律」を発効させ、国家元首である大統領の職務を首相の職務と合体させ、「指導者兼首相 (Führer und Reichskanzler) であるアドルフ・ヒトラー」個人に大統領の職能を移した。ただし「故大統領に敬意を表して」、大統領(Reichspräsident) という称号は使用せず、自身のことは従来通り「Führer(指導者)」と呼ぶよう国民に求めた。この措置は8月19日に民族投票(ドイツ語版)を行い、89.93%という支持率を得て承認された。これ以降、日本の報道ではヒトラーの地位を「総統」と呼ぶようになった。指導者は国家や法の上に立つ存在であり、その意思が最高法規となる存在であるとされた。 権力掌握以降、ヒトラーの個人崇拝は国民的なものとなった。1935年1月22日には、公務員や一般労働者が右手を挙げて「ハイル・ヒトラー」と挨拶することや、公・私文書の末尾に記載することが義務付けられた。民衆が党や体制に対する不満を持つことがあっても、地方・中央の党幹部に批判が向けられ、ヒトラー自身が対象となることはほとんどなかった。 国家元首に就任して以降、国際的な行動を実行する日にしばしば土曜日を選んだ。これは週末は他国政府の対応が遅くなるという理由からである。1935年3月16日のドイツ再軍備宣言、1936年3月7日のラインラント進駐はどちらも土曜日である。
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