北海道深川西高等学校
あゆみ会事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/01 04:49 UTC 版)
「北海道深川西高等学校」の記事における「あゆみ会事件」の解説
1954年9月、地方新聞紙上に深川西高で「偏向教育」が行われていると報道されたことが事件の発端。 これを最初に報じた北海日日新聞には「日共の触手高校生へ、父兄ら神経尖らす」とあり、続く北海道新聞にも「学園に日共の触手、深川西校『あゆみ会』問題化、非武装の軍事訓練も行う」という見出しが出て、生徒、教職員は元より父母や地域住民にも動揺が広がった。 問題とされた「あゆみ会」は生徒会公認の文化系同好会のひとつで、「きけわだつみのこえ」に衝撃を受けた生徒たちにより結成された。反戦平和を掲げていたものの当時としては必ずしも過激なスローガンではなく、実際的には校内読書会や僻地を訪問してコーラスや人形劇を披露するなど、特に問題視されるようなサークルではなかった。だが、新聞では部員によるキャンプや海水浴が「秘密会合、軍事教練」などとされ、僻地訪問活動なども、あたかも日本共産党の手引きで行われているかのように報じられた。 報道の3日後の深夜、校内で「あゆみ会」の部員の男子生徒が抗議の自殺をした。遺体の傍には新聞社に抗議する旨の遺書が残されていた。これを受けて、北海タイムスは「真実訴える○○君の遺書、なぜ赤い目でみる?偽りの報道に死の抗議」(○○は実名)と報じ、先の「偏向」報道に反論。これに毎日新聞、朝日新聞が加わり、各社対抗する報道合戦に過熱していった。 生徒の自殺を契機に、校内では連日生徒自らが集会を開き、事件解決への粘り強い話し合いを続け、教職員も連日深夜まで対応に奔走したが、最中に数名の生徒が後追い自殺を試み、未遂に終わるなど混乱を極めた。また、道内外の学生自治会や労働団体、教育学者などが続々と調査や支援のために来市し、北海道大学、北海道教育大学にも対応委員会が設置されるなど、事件は全国的に注目されることとなった。 結局、この事件は戦後の「民主教育」を掲げた学生運動や組合活動が活発だった校内の雰囲気を危惧した当時の校長や教育委員会、公安がマスコミを通じて圧力を加えようとしたのが真相であった。校長は赴任当初より保安大学受験拒否事件などを挙げて、前校長の教育方針を「潰す」と公言していた。加えて、調査の過程で「あゆみ会」部員の友人に対して警察官が金銭を与えて情報提供を促したり、校長が秘密裏に生徒の素行や個人情報を警察に提供していた事実が明るみにされた。発端となった報道についても、記者自身が警察情報を一方的に記事にしており、多くが伝聞に基づくいい加減な内容であったこと後に告白している。 結果として教育現場への警察の不当介入、校長の職権濫用が厳しく糾弾され、当初は学校に批判的だった父母や地域住民も態度を軟化させていった。事件から1か月を経て、北海道新聞も社説で間接的に誤報を認め事件は収束した。ただし、北海日日新聞は最後まで誤りを認めなかった。 事件の数年後、北海道教育委員会は同校の大半の教職員を道内の遠隔地へ分散させる人事異動を発令。「ミサイル人事」とも呼ばれた異例の人事は、教職員に対する報復とする見方もあった。これにより関係者が分散し、以後、事件が語り継がれることはほとんどなくなった。
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