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Author:青木勇気
小説を出していたり絵本も書きたかったりします。物書きと呼ぶにはおこがましいくらいのものですが、物語を書いて生きていけたら幸せだなと思っています。

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「ディマンディング」が生み出す弊害について

2012.02.17 20:13|雑記
「ディマンディング」という言葉がある。あまり聞き慣れないかもしれないが、「過剰に要求する(こと)」といった意味だ。本稿では、「ディマンディング」の実例を用いながら、これが生み出す弊害について述べたいと思う。

まず、「要求過剰」とはどういう状況を指すか。ある主体が「お客様(自分)の立場は絶対だと考える状況」と捉えると分かりやすい。要求が過剰になると心は満たされなくなり、ストレスが溜まり、身勝手で攻撃的な言動を取るようになる。これは、サービス業などで散見されるハードクレーマーや、一時期耳目を集めたモンスターペアレントなどを思い浮かべてもらえれば良いだろう。

「お金を払っているのだから、お客様(自分)の立場は絶対であり、サービス提供者は要求をのむべきと錯覚している」ときに起こることである。ここまでは、よくある話だ。
 
では、次にインターネット上での無料サービス、コンテンツの場合を考えてみよう。例えば、フリーソフトの提供者やブロガー(アフィリエイト、記事広告ありきのものは除く)などは、組織に雇われた身ではなく、金銭目的でやっているわけではない。つまり、「見たければ(欲しければ)どうぞ」というスタンスである。こういう人たちや無料のものに対して、「無駄なものつくりやがって」などと不平不満を言い、自分にとって有益である情報を求めるのはどうだろうか。

PC、スマートフォンなどのデバイス、通信料など、情報に辿り着くにあたって一定額を支払っているから、タダではないというかもしれない。ただ、サイトやその中のコンテンツの使用料はかからない。一方、発信元は「タダ」ではない。むしろ、提供するために何らかの労力、経費を割いている。好きでやっていることだとしても、消費するだけでは飽き足らず何かを要求するとなると、それはもう「ディマンディング」と言えるだろう。

ネット上での炎上事件は枚挙に暇がないが、発信元や特定の個人にダメージを与えるものは、誹謗中傷や煽りの類いだけではない。この「ディマンディング」も少なからず発信者を疲弊させる。あるブログのコメント欄に、「もっとためになることを書け」「レベルの高い論考を読みたい」などと要求することは、過剰な期待でしかない。

もちろん、事実誤認への指摘や関連記事の紹介、疑問点の提示などはむしろありがたいことと思うが、「ディマンディング」はそれらと混同されがちである。しかも発言者に自覚がないことが多く、自分の主張は正しいとさえ思っているだけにタチが悪いと言える。

こういった現象は、Twitterによってより明確に可視化されたように思う。Twitterは、自分でフォロー先を選び、TLをカスタマイズすることが可能で、様々な情報にアプローチできるものである。つまり、見たいものと見なくていいもの(見たくないもの)をある程度まで絞り込むことができる。ただ、一方である人がフォロワーの多い著名人に文句を言って、「見たくないならフォローしなくていいですよ」と言われているシーンをよく目にする。

「おかしなことを言っているから指摘しただけ。それにしっかり答えるのが礼儀だ」と反論するかもしれないが、これは一方的にフォローして、一方的に絡んで、発言内容をコントロールしようとする、「それって、もはや“フォロワー”じゃないですよね?」という状態であろう。完全に「ディマンディング」だ。

さて、前置きが長くなってしまったが、ここからが本題である。

このように「ディマンディング」なアウトプットが顕在化することで、見えてくるものがある。それは、情報へのアプローチが簡便になることと、インプットの精度が上がることに相関はないということだ。むしろ、「能動的」に最短距離で答えに辿り着こうとする習慣は、考えることに関しては「受動的」にしたとさえ言える。残念ながら、検索エンジンのアルゴリズムが進化しても、使い手のインプットの深化は実現しない。立ち止まって考える前に情報を欲し、吟味することなくアウトプットする癖が身に付いてしまったからだ。

TwitterにしろGoogle検索にしろ、そこに出てくる情報は原則的に「自分で選んだ」ものである。よく考えてみてほしい。自分で選んだその対象に文句を言ったり、否定をしたり、思ったものと違うと苦言を呈することが何を意味するか。これはもう、過剰な要求を通り越して自己責任の放棄である。

震災後に高まった政府や東電への不信感や不安によって、この「ディマンディング」はより顕著になったように思う。発信側に大いに問題があり、かつデマゴーグが跳梁する状況下では無理もない話であるが、「自分は正しい情報を提供されてしかるべきだ。これは当然の権利なのに、なぜその通りにならないのか」というように、どうしても要求的な思考になりがちだ。

ただ、誠意をもって客観性のある情報を提供する「義務」と、オンデマンドの情報を提供される「権利」はイコールではない。ある対象を敵視したり、頭ごなしに否定しても構わないが、それは自立を前提としなければならない。自ら情報を選択し、精査し、信頼に値するかどうかの判断を下す力が試されることになるということだ。

「ディマンディング」は自分で考え、判断すること、つまりは「自立」の障害になる。これは弊害以外の何物でもないだろう。

※言論プラットフォーム「アゴラ」に掲載された記事を転載しています