遊びの最近のブログ記事

昭和の時代に今のようなしゃれたデザインのコテージがあるキャンプ場などなかった。

中学生の頃、夏休みがくると仲のいい友達で川にキャンプに行った。女の子5人男の子5人くらいだったと思う。キャンプに行くにはテントが要る。あの頃は貸しテント屋さんがいくつかあって、夏休み前にテントを借りる予約を入れて、当日テントと飯盒を借り、バスに乗って川原でキャンプを張った。必要なものはみんなで持ち寄ったが、その中にフォークギターがあった。日の高いうちは川で泳ぎ、日が傾いてくるとカレーライスを作り、夜になればキャンプファイヤーを囲んでギターを弾き、歌を歌った。なぜか、人気があったのが、「戦争を知らない子どもたち」ジローズの曲。



中学校3年の時だったろうか。キャンプファイヤーの火も消し、みんなテントで眠る頃、わたしは一人の女の子と河原で並んで寝転び、満天の星を見上げていた。流れ星がいくつもいくつも空を横切っていく。

深夜になり、二人でトイレに行ったとき、(当時のキャンプ場のトイレというのは肥溜めの上に板を張り、四方を見えないように囲んだだけのものだった)わたしは、一本の木に無数の霊魂を見た。大きな木の幹に、まさに恨めしい表情の人の顔が十、二十と張り付いているのである。これは女の子も一緒に見たので私の錯覚ではないと思う。

怖いね、怖かったね、と言いながら私たちは河原に戻り、何もなかったかのように満天の星のささやきを聞き続けた。二人で手をつないで寝転び、寝転んだ背中が河原の石で痛くなれば起きて膝を組み、何も話さなかったのか、ずーっと語り合っていたのか、わたしには記憶がない。しかし満天の星はまぎれもなく私だった。そして山際が白み始め、一夜の青い夢が終わった。

今、思う。
あれは本当の出来事だったのだろうかと。
手をつないでいたのは誰だったのだろうと。

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昭和どうこうという問題ではないが、家に帰るとドアのところにカタツムリがいた。ちなみにうちのドアは2階にあるので、このカタツムリは相当長い距離を這ってきたことになる。そんなことに感激するのは私だけかもしれない。

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色々調べてみたのだが、驚いたことは、水生の巻き貝が陸上で生活するようになったのがカタツムリで、カタツムリが進化して殻をとったものがナメクジらしい。すると、カタツムリに塩をかけると、「しおしおのぱー」になるのだろうか。

ちなみに調べている途中で楽しい質問を見つけた。

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アーァアーー

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昭和の時代には、親戚の叔父さんの山で筍を掘った。近くの小山に遊びに行くときには、ポケットに紙で包んだ塩を忍ばせた。春は山菜が沢山生えていたが、子どもの狙いはイタドリだった。イタドリに塩をかけてそのままかじりながら小山を探検していると、いくつもの防空壕があった。防空壕は怖かった。奥の見えない穴というのは大抵怖いものだ。大きく育った蔦を使ってターザンにもなった。みんなかならず「アーァアーー」と雄叫びを上げた。何の不安もなかった。明日を思い煩うこともなかった。

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庭で苺が次々と赤く実っていく五月である。

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紙風船

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静かな秋の日に紙風船。昭和の時代によく家の中で遊んだ紙風船。そのデザインは今でも変わらない。

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昭和30年代には、富山の薬売りのおじさんが、大きな行李を大きな風呂敷のようなもので背負い、年に何度か我が家にもやってきた。玄関で「こんにちは」と言う声が聞こえると、すぐにおじさんだと分かった。おじさんの声は低くてなめらかだった。玄関で行李の蓋を開けるおじさんの七三に分けられた黒い髪の毛は整髪料で光っており、行李の中には驚くほどたくさんの薬が綺麗に並べられていて、その端っこに紙風船がいくつか畳まれていた。

先日、Amazonにデザイン関係の本を注文したのだけれど、翌日には、買う気がなくなって、キャンセルの手続きをしようとしたが、すでに発送の手続きに入っているという表示がされているだけで、何もできなかった。仕方なく諦めていたが、今日紙風船を膨らませているときにパソコンに届いたAmazonからのメールは、商品が手に入らないのでキャンセルさせていただく旨のお詫びのメールだった。

静かな秋の日に紙風船をついてみる。

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ぐいみ

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昭和30年代,甘いものは高価だったし,なかったし,私たちは小山に上り「ぐいみ」を食べました。

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多分,全国では「ぐいみ」とは呼ばないだろうと思いながら検索してみると,土佐のページばかりが出てきます。

山にもあったし,近くの大学の寮にもたくさんありました。
「食べ過ぎるとおなかが痛くなる」
と母親が言っていましたが,あれは本当でしょうか。

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ルービックキューブがツクダオリジナルから発売されたのが昭和55年。随分最近のことです。考案したのはハンガリーの建築学者エルノー・ルービック。無印良品の店に行ったときに,ふと目に留まったキューブ。おしゃれなデザインです。

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当時の正式なキューブの色の構成は白・青・赤・橙・緑・黄でした。あまりの人気に売り切れが当然で,バッタ物が発売されるまでになりましたが,一番スムーズに動いたのはやはり元祖のものでした。ルービックキューブ以前にも色々なパズルはありました。総じて知恵の輪と呼ばれるものがたくさん発売されていて,色々な種類の知恵の輪を置いている喫茶店もありました。知恵の輪は時間をかければ解くことができましたが,ルービックキューブは自分の頭では解けなかったですね。雑誌に方法が書かれているのを暗記して,実際に何百回とやってみて,じんわりとその仕組みが分かった・・・と思い出します。しかし,今はできないでしょうね。

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お雑煮食べたら

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お雑煮を食べたら,子供たちは双六をして遊びました。レトロなデザインの昭和20年代の双六です。

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双六の起源は古代エジプトだとか,ローマ帝国だとか,色々説やルートがあるらしいが,奈良時代には日本にも存在していた。さいころを2個振って遊ぶために,賭博として扱われていたこともあります。
明けましておめでとうございます。

お正月に外にでても,道路で遊んでいる子どもの姿がありません。なんだか,不思議にさえ思えてしまいます。コマ回しと,凧揚げは,昭和の子どもの遊びでは必須科目でした。今でも和凧を作られているところはいくつかあります。

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昭和のはじめから手芸用品企業としてのトップブランドであるクロバーの布切りはさみです。いいデザインです。じっと見ていて飽きないのは私だけでしょうか。

社名の「クロバー」は白詰草のことです。海外の会社は「CLOVER」となっています。クロバー株式会社の創業は大正14年。岡田敏雄さんが「岡田慶七商店」として設立しました。

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子どもの頃に家にあったのもクロバーのはさみでした。小学校で使うはさみとは比べ物にならない存在感が漂っていました。

昭和30年代,子供たちにはメンコが大人気でした。あの頃のメンコはB4位の大きさの紙に20枚程が印刷されていて,それを一枚ずつに切ってから使いました。土佐ではメンコのことを「パン」と言いました。その「パン」を切るのに使ったのがこのはさみです。鉄腕アトム,鉄人28号,月光仮面,赤胴鈴の介・・・道路に一斗缶を置き,その上に板を乗せて,遊び呆けた夕暮れ時。

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国際救助隊本部

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国際救助隊本部のプラモデルですね。昭和40年代のものでしょうか。プールから発進するサンダーバード1号がかっこよかったです。ちゃんと宇宙ステーションも浮かんでいたりします。

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昭和レトロでポップなデザインの風呂敷きを見つけました。風呂敷き。名前の通り,もともとは銭湯で敷き物として使い,同時に衣類を包むものとしても使用され始めたものですね。

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★シビラ綿大ふろしき / PRIMAVERA・ブルー

子どもにとって,風呂敷きはマントだった。紙巻きの火薬の付いたピストルを右手に持ち,首に風呂敷きを巻いて走ると,風呂敷きはなびき,わたしは月光仮面になれた。
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公園にある水道のカラン。昭和の時代からあるデザインですが,いつからかといわれると判然としません。

昭和30年代の公園には遊具など多くはありませんでした。近所の公園には鉄棒しかなかった。でも,遊具なんて必要なかったですね。一人で釘立て(釘刺し)をしたりしていると,近所の友達が集まってきました。三人集まれば,公園の隣の家から風呂を沸かすための薪をくすねてきて,それをバットにして三角ベースの野球ができました。一人がピッチャー,一人がバッター,そして一人が野手です。そんなときの球はピンポン玉より少し大きいプラスチック製のボールを使いました。駄菓子屋で10円くらいで買えましたから。バッターが打ち,野手が捕り,バッターが一塁に駆け込むまでに,捕った球を走るバッターめがけて投げつけます。あたればアウトです。アウトになったバッターは今度は野手になります。野手はピッチャーに,ピッチャーはバッターになります。そうやってアウトになるたびに交代していくのです。
昭和。幼いときの記憶は一人のことばかり。

麦わら帽子をかぶり,捕虫網を手に持ち,虫かごを肩から斜めにかけて,蟬取りをした夏休み。持っている捕虫網は自分の背丈より少しだけ長いくらいで,木の高いところにいる蟬は捕まえられなかった。私は熊蝉を捕まえたかった。熊蝉の羽は綺麗だったから。でも,幼い私には,なかなか捕まえられなかったあの頃。

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(ヒグラシ?)

時間を忘れ,一人で蟬を追い,激しい蝉時雨は時間を止め,自分がどこを歩いているのか分からなくなった白い午後。
昭和39年に発売されたラッションペン。懐かしいデザインです。レトロなラッションペンは今でも現役です。

水性顔料インクのラッションペンは,昭和40年代の家庭には必ずといっていいほどありました。寺西化学工業株式会社の製品です。もともと,マジックもこの会社の開発です。「マジックインキ」が発売されたのが昭和28年。内田洋行との共同開発です。発売当初は全く売れなかったそうです。それが今も存在するロングセラーとなったのですからすごいものです。
*「マジック」、「マジックインキ」は、株式会社 内田洋行の登録商標です。

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子どもの頃はなぜあんなに落書きばかりしたのでしょうか。家の襖や柱に鉛筆で書き,他人の家のブロック塀にろう石まがいの石で書き,地面には釘で書きました。それだけで愉しかったのは何故でしょう。落書きをしている私の時間は永遠に続くかと思われた。
明治ミルクチョコレートのデザインは昭和から変わっていない気がします。レトロというよりも,もうその存在地位を完全に築いてしまったデザインだと思います。懐かしさに買ってきましたが,もう食べてしまいました。味も昔と変わらない気がします。甘いものはなんでも美味しかった昭和ですね。中身が無くなったパッケージを撮りました。

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あの頃私はまだ小学生でしたが,すでに社会人になった兄がいました。よく,近所のお菓子屋さんまでチョコレートを買いに行かされたことを覚えています。兄に言いつけられたのは,いつもこの明治のミルクチョコレートかロッテのガーナチョコレートでした。買ってくると,麻雀のメンバーに入れてくれました。負けた記憶がありません。難しい手役はまだ分からなかったし,点数の数え方も知らなかったけれど,とにかく七対子がよくできました。兄の驚いた顔を今でも覚えています。

桃マッチと2B弾

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昭和を代表する桃マッチ。懐かしいデザインです。子どもの頃,マッチは日常的に使いました。小学校の先生がマッチのすり方を教えてくれたのを覚えています。インスタントラーメンを作るとき,五右衛門風呂を沸かすとき,蚊取り線香をつけるとき,庭でゴミを燃やすとき,花火をするとき・・。

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そういえば,子どものおもちゃとして,2B弾というものがありました。これは火をつけるのにマッチを必要としません。石やコンクリートにすり付けるだけで着火します。鉛筆くらいの大きさで,火をつけると黄色い煙がモウモウと出ます。そして30秒位して爆発します。黄色い煙が出ている時に手で持ち,友達を追いかけて走ります。爆発する頃合いを見計らって投げつけます。頃合いを誤ると自分の手の中で爆発します。手が火薬で黄色くなります。この2B弾の優れているところは水の中でも消えないことです。水の中でも黄色い煙を勢いよく吐き出した後に爆発します。荒っぽい遊びが日常だった昭和です。

2B弾を道具にして「忍者部隊月光」ごっこもしました。

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