記憶の片隅

雑多な写真を掲載しています。

鞍手町木月口あたりから見た六ヶ岳

2024å¹´06月19æ—¥ | å±±
鞍手町木月口あたりから見た六ヶ岳

撮影2024年6月19日

六ヶ岳(鞍手町木月より)

2024å¹´06月07æ—¥ | å±±
鞍手町木月あたりから見た六ヶ岳(2024年6月7日撮影)

暇つぶしの散歩道

2024å¹´05月20æ—¥ | å±±
最近暇な折に散歩している山道です。(2024年5月20日撮影)

竹藪の竹に絡まり登るツルニンジン

2024å¹´05月12æ—¥ | å±±

輪生する四枚の葉が風ぐるまみたいで涼しげ。(撮影2024年5月8日)

麦畑と気になる木

2024å¹´05月08æ—¥ | é¢¨æ™¯
いつも通る道すがら麦が実った畑の向こうに気になる木があります。近くへ行って見ればいいのですが車では行きにくいのです。

撮影日2024年5月8日

誰のスニーカー?

2024å¹´04月04æ—¥ | é¢¨æ™¯
数日前からぶら下がったままのスニーカー。 電気の流れるケーブルではなく道路のカーブ地点で電柱を支えるワイヤーのようです。

撮影2024年4月2日

宗像四塚

2024å¹´03月13æ—¥ | å±±
遠賀郡岡垣町尾崎あたりから見た宗像四塚(四塚の半分は岡垣町なので岡垣四塚と呼んでもいいかもしれない)連山は左から『城山』『金山』『孔大寺 山』『湯川山』

撮影2024年3月13日

漁師町・鐘崎

2024å¹´02月20æ—¥ | é¢¨æ™¯
後ろの山は湯川山。明治時代の写真を見ると現在の港はずっと砂浜で木造の艪漕ぎ舟が浜に引き上げられています。町には同姓の人が多く特に『権田(ごんだ)』『石橋』『花田』などの姓の方が多いようです。

撮影日2002年3月

『民宿しらいし』から見た鐘崎の町(2001年4月6日撮影?) 長方形の更地は廃校となった『岬小学校』の跡(昭和47年3月廃校-1972年)。中央の島は『地ノ島』その右ての小さな山は『佐屋形山』左て遠くの大きな島は『大島』。

鐘崎・佐屋形山 ( 中腹に織幡神社がある )

2024å¹´02月18æ—¥ | é¢¨æ™¯
宗像市鐘崎にある漁民アパートの高層階より撮影 (撮影年不明2002年3月30日?)

友人の集まり

2024å¹´02月13æ—¥ | å€‹äººä½å®…
余裕のある友人は広いアパートに住んでいたなぁ。家賃は一万五千円位だったと思う。当時流行っていたオセロゲームをやっているようです。(1972年ころ)





東中野の古民家シェアハウス

2024å¹´02月12æ—¥ | å€‹äººä½å®…
1972年ころ東中野の古い戸建民家の二階四畳半か六畳を借りて住んでいました、二階の別の部屋は都庁に勤めているちょっと年上の男性でした。雪が降った朝のようです、庭の樹木に雪が積もっているようですね。


最初、畳の上に埃が積もっていてその大掃除が大変だった記憶があります。長期間空き部屋だったのでしょう。

三鷹の四畳半貸間住まい

2024å¹´02月11æ—¥ | å€‹äººä½å®…
1971年ころ三鷹下連雀の一般家庭の玄関わきにある四畳半の部屋を借りていました。家主は寡婦(お婆さん)でたまに孫娘が来ているようでしたが没交渉。写っている古物屋で買ったテレビで浅間山荘が鉄球で崩されていく様子をずっと見ていた記憶があります。

同じ部屋を入り口側から見たところ。

貧乏学生の三畳貸間部屋(練馬区豊玉北)

2024å¹´02月10æ—¥ | å€‹äººä½å®…
貧乏学生だった私は礼金敷金なしの一ヶ月5000円前後の貸間やアパートを渡りあるいていました。ここは1969年ころ住んでいた練馬区豊玉北の2階3畳の貸間。トイレは共同水回りなし、階下は家主の母娘の住まいになっていました。2階となりの部屋は若い女性が二人で住んでいました。風呂は銭湯食事は定食屋や学食。


水巻町から見た六ヶ岳

2024å¹´02月09æ—¥ | å±±
水巻町の立屋敷遺跡あたりから見た六ヶ岳(右手の奥)撮影2024年2月9日
道路沿いの2本の銀杏は『夫婦銀杏』写真には写っていませんがすぐ傍の八剱神社にあるのは『大銀杏』と呼ばれているみたいです。
※ 追加記事
『夫婦銀杏』の名称は水巻町の公称ではないそうです。雄株雌株の確認もしていないということです。(秋に実がつくかどうか確認してみたい)


二本の銀杏の木の間に六ヶ岳を入れたアングルにしてみました。



皿倉山〜福智山の稜線(水巻町より展望)

2024å¹´02月02æ—¥ | å±±
新水巻病院から見た皿倉〜福智山系(撮影2017年7月)