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     筆の遅い人はどの分野にもいる。
     
     けれども、主として井上ひさしの貢献によって、遅筆といえばまず劇作家を思い浮かべてしまう偏見がある。
     これはおそらく、他のジャンルよりも遅筆のイメージが印象的でユーモラスなことによるのだろう。
     すでに幕が上がっているのに台本が完成せず、舞台袖で残りの台詞を書いているようなイメージである。
     
     しかし劇作家のすべてが遅筆という訳ではない。
     たとえば北村想は、本人の表現を借りるなら、初演に台本が出来上がっているどころか、脚本集として出版済みであるほど、筆の速い人である。
     「書くのが遅いのをなんとかしたい」という相談に答える形で、北村想は、何故自分は筆が速いのか、筆の遅い劇作家と何が違うのかを説明している。
     遅筆癖をやめ、はやく書くための〈秘訣〉としても読めるその説明は、ほとんどの秘訣がそうなように、身も蓋もないものであった。




    今回の出典は

    高校生のための実践劇作入門―劇作家からの十二の手紙高校生のための実践劇作入門―劇作家からの十二の手紙
    北村 想

    白水社
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    具体的で身も蓋もないことしか書いてない、あらゆるジャンルで書き始めようとしている人が手元に置くべき実用書。





    遅筆から抜け出すための身も蓋もない教え

     北村想は何故はやく書けるのか?
     それは、筆の遅い劇作家が最後の最後まで作品を良くしようとぎりぎりまで努力と苦闘を続けるのに対して、自分は粘ってもそこまで大して変わらないだろうと、早々に完成させてしまうからだ、という。

     芸術家にあるまじき投げやりなスタンスだと眉をひそめる人もいるかもしれない。
     しかし芸術家が自身の芸術的衝動や霊感に従う義務を負っているとしたら、劇作家はまた別の義務を負っている。台本を間に合わせ役者や演出家やプロデューサその他関係者に犠牲を強要しないこと、その制約の中で(できるならなるべく良い)台本を書き上げることだ。でないと舞台公演は延期され、役者や劇関係者は仕事を失い、観客は何もみることができない。

    このような〈近代的〉な芸術家像は、料金の未払とかクライエントと揉めたりといった外的原因によってではなく、自らの創作的な意志と衝動によって作品製作を中断し、多くの未完成作品を残したミケランジェロを嚆矢とするというフォークロアがある。
     
     
     なるほどプロは仕事だから締切に間に合わせるのが当然だ。
     しかし誰に求められるでもなく好きに書いている自分には、その話に乗る理由がないという人もいるだろう。
     その心意気やよし。
     だが、上達のためには、「どのように書けばいいか」悩むよりも、最後まで書き終えることを優先したほうがいい。
     
     どう書こうか悩むことと、実際に書くことは、上達に関していえば等価ではない。
     言うまでもなく、実際に書いた方がずっと上達に寄与する。
     どんなものであっても(たとえ目を背けたくなるようなしろものであっても)書き終えることで、人は多くを知ることができ、次のステージに進むことができる。
     
     これらから導かれるのは次のことである。
     「もっとうまく書けるかも」という妄執をやめれば、人はもっとたくさん書くようにもなるから、最終的には、よりうまく書けるようにもなる。
     
     
     
    書き終えることでたどり着く地点

     これだけだと「お前なんかどう頑張ったって、うまく書けっこないのだからあきらめろ」とだけ言われているかのようで、書くことに真剣に向かい合う意識の高い文章書きさんは反発を覚えるかもしれない。
     なので、蛇足と思いながら、もう少し続けてみる。


     「もっとうまく書けるかも」という妄執に囚われていると、書き手はもっとマシな何かを書ける可能性を求めて、完成させることを引き伸ばすか、別の書き物に移る可能性が高い。

     〈完成させることを引き伸ばす〉という症状は、自分に対する要求水準の上昇といった形で現れる。
     「これだけ時間をかけてしまったのだから、並大抵のレベルでは満足すまい」といった心持ちが湧いてくれば、延期と要求水準の上昇の間で悪循環が形成され、完成はますます遠のいてしまうだろう。
     
     〈別の書き物に移る〉ことはこんな風に生じる。アイデアは新鮮な分だけ素晴らしく見えるものだ。より新しい思いつきは、今書いているものよりも〈新しい〉というだけで成功しそうな気がしてしまう。
     今書いているものがうまく行っていないなら、なおさら別の可能性を選ぶほうが利口で合理的な感じがする。
     
     言うまでもなく、これらは悪い選択だ。
     

     ヒトとしての成熟が、「自分はきっと何者にかなれるはず」と無根拠に信じていなければやってられない思春期を抜け出し、「自分は確かに何者にもなれないのだ」という事実を受け入れるところから始まるように(地に足の付いた努力はここから始まる)、書き手としての成熟は、「自分はいつかすばらしい何かを書く(書ける)はず」という妄執から覚め、「これはまったく満足のいくものではないが、私は今ここでこの文章を最後まで書くのだ」というところから始まる

    「どのように書くか how to write」につかまらない、また、つかまったとしてもできるだけすばやく抜け出すコツは、「何を書くか what to write」に注力することだ。「どのように書くのがよいか how to write」という問いは、「どのように振舞えば相手の好意を得られるか」にも似て、答えが無数にある問いである。
     
     これは可能性についての断念ではなく、(誰かに与えられた訳ではない)自分に対する義務を果たそうという決断だ。
     
     そうして書き続けても、書いている間中、それもひっきりなしに「違う!こうじゃない!」という感じに襲われるだろう。
     時には、思ってもみないほどスラスラと、まるで刷毛で撫でただけで土の中から遺物がどんどん現れるかのように、原稿用紙(エディタ)の上に書き言葉が生まれ出る場合もないではない。
     しかし、ほとんどの時間、書き手は違和感という壁に繰り返し頭をぶつける。
     はっきり言って不愉快だし、不快な感じばかりが続けば、「こうまでして書かなきゃいけないものか」という気持ちに襲われる。ついには書き続けることができなくなる。
     
     しかし、この違和感は、書き手を押しとどめる障害であるだけではなく、書き手に力を与え、次に進む足掛かりにもなる。
     こうしたギャップに繰り返し頭をぶつけ、未だ形をとらない〈表現〉と思い通りにならない〈書き言葉〉の間を繰り返し往復して、はじめて人は本当の意味で〈考える〉ことができるようになる。

     では最後まで書き終えれば、書き手はこの違和感から解放されるのか?
     否。
     むしろそこで分かるのは、(すぐにかき消えてしまう、つかの間の高揚感を除けば)「違う!こうじゃない!」という違和感から書き手が解放されることは、ほとんどないという事実である。
     しかし、これこそが書き終えた者だけが手にすることができるギフトである。
     《最後》まで書き終えて始めて、人は書きたいと思っていたことが本当は何であるか、自分が現に書いたものはそれといかに違っているかを知る。
     思っていたようには決して書けないということ、書こうとしていたもののすべてを書くことは決してできないのだと思い知る。
     
     このすぐ先に、「うまく書けない」(あるいは「書き方がわからない」「才能がない」)なんてことは、書くことを回避したり、書き終えることを引き伸ばす理由には全くならないのだと、覚知する瞬間がやって来る。こうして書き手としての幼年期は終わりを迎える。
     


     「この先は荒野です。道がありません」
     「そうか。では進もうか」

     

    (参考記事)

    書くことは何故苦しいのか? スランプを破壊するいくつかの方法 読書猿Classic: between / beyond readers

    書きなぐれ、そのあとレヴィ=ストロースのように推敲しよう/書き物をしていて煮詰まっている人へ 読書猿Classic: between / beyond readers

    心理学者が教える少しの努力で大作を書く/多作になるためのウサギに勝つカメの方法 読書猿Classic: between / beyond readers
     
     
     
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