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     問題を根本的に解決しようとする場合に用いられてきた「メスを入れる」という比喩は、もちろん外科手術から来たものである。おおよそ、その意味するところは
    「悪いところ(患部)を見つけて、取り除く(それには痛みを伴う)」
    といったものだが、問題解決について自然に思えるこのアプローチは、実はかなり限界がある。
     世の中の解くべき問題の多くは、問題を特定して取り除いたり置き換えたりする「外科手術的介入」では解決しない、あるいはそうした解決が問題の一部になってしまう(そのため解決に取り組めば取り組むほど問題をこじらせる/長引かせる)ことが少なくない。

     先の記事 「もがけばもがくほど蟻地獄」状態に陥った時の抜け方、やり方、考え方 読書猿Classic: between / beyond readers 「もがけばもがくほど蟻地獄」状態に陥った時の抜け方、やり方、考え方 読書猿Classic: between / beyond readers このエントリーをはてなブックマークに追加 では、こうした逆説的な問題に対する、逆説的な解決方略のひとつ「症状処方」を紹介した。
     今回はより網羅的に、逆説的問題の悪循環をほどく方法を紹介したい。

     今回、説明のためにとりあげた事例は、いずれも個人ないし個人間(インターパーソナル)なレベルのものだが、より大規模なシステム(集団や組織や社会レベル)の問題にも、原理的には応用可能なはずである。その方向へ展開していく用意が今のところ整わないので、長い宿題としたい。


     なお、以下の説明は、長谷川啓三『家族内パラドックス』(彩古書房、1987)に寄っている。
     この本が現在も容易に手に入るなら、この記事は無用なものだと思う。

    家族内パラドックス (サイコブックス)家族内パラドックス (サイコブックス)
    (1987/10)
    長谷川 啓三

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    過重課題

     自然に起こるはずのことを努力してしまい、かえってできなくなるパターンの悪循環問題に用いるものである。

     先の記事でとりあげた不眠症がこの悪循環問題の一例である。
     眠ろうとして、様々な(ありとあらゆる)努力をすればするほど、意識が覚醒して眠れなくなるという悪循環ができている。

     強迫的な行動の繰り返しもまた、同様の悪循環を構成している。
     つまり、その行動をやめようと努めることで、その行動にすべて注意を注ぐことで、他の行動が減り、抑えたい行動が強迫的なものになってしまっているのだ。
     
     インポテンツや不感症といったものも、同様の悪循環であることは理解しやすいだろう。


     過重課題とは、目的の行動のかわりに(あるいは追加して)、もっと大変(過重)(かつナンセンス)な課題をやってもらうものである。

     先にあげた例に対応させて説明する。

     眠れない人には、眠れないなら一晩中トイレや台所や床を磨くことを課題にする。あるいは、目をつぶりたくなっても、がまんして目をあけつづける(まばたきもだめ)、これを数回耐えてから、目をつぶるなど。

     強迫行動、たとえば「手を洗わずにはいられない」人には、手をだけでなく腕や顔や足まで洗ってもらう。専用のせっけんを持ち歩く、自分だけでなく他人にも洗うのを手伝ってもらうなど。


     やろうとすればするほど(逆に、やめようとすればするほど)ダメなことは、やろうとする(やめようとする)努力が、かえって問題行動との間に悪循環ループを形成している。

     このループを切り替えるために、ループの回転に余分な力を加える。
     つまり、いつもの努力よりも、より大変でかつより無意味なことを「課題」にする。
     すると、「そんなバカバカしいことやるくらいなら」と、ループを抜けることができる。
     すなわち、問題の悪循環がほどける。


    症状処方

     症状処方とは、問題になっている当の「症状」を意識的に行うよう指示するものである。

     例えば、手や足の震えを止めようと努めることで、筋肉を緊張させ、余計に「ふるえ」を引き起こしてしまう。
     解決の努力が、ここでも問題の一部となっている。

     「ふるえ」という症状を抑えることができない悪循環を組みかえるのに、症状を持っている人に対して
    「もっと、ふるえてください。もっと大きく、もっと速く」
    という指示を行う。すなわち、「症状」を処方する。

     指示通りに、より「ふるえる」ことができれば、それは「ふるえ」をコントロールできたことになる。
     実際、より「ふるえる」ことができた場合には、しばらく「ふるえて」もらった後、「もういいですよ」と声をかけると、ふるえが止まる。

     症状処方は、その処方(指示)に従わない(いずれにせよ従えない)ことが、問題の解決(少なくも悪循環からの出口)になっている。
     パラドクス的な状況に対して、別のパラドクスな指示を行う(パラドクスを処方する)ことで、組み変えているとも言えるだろう。


    免疫法

     人見知りを直したいという人。
     人に無視されるのが怖くて、人と会うのを避けてしまう、という。

     恐怖や不安は、やっかいなことに、それを回避すると、余計に増強してしまう。
     つまり恐怖・不安→回避→より強い恐怖・不安→さらに回避→もっとより強い恐怖・不安→……という悪循環ができあがる。
     このため、最初は小さな不安であり、問題のない回避だったものが、日常生活に支障をきたすほど大きく激しいものに育ってしまうことがある。
     他の人がみると「なぜこれくらいのことが?」と思うようなことでも、恐怖・不安と回避の悪循環のせいで、耐え切れないほどの恐怖・不安を生むに至ったのだ。

     では、どうするか? 

     回避が恐怖・不安を増強するなら、悪循環を逆回転させるには、恐怖・不安を回避せず、直面するしかない。
     直面するしかないのだが、ただ「直面しろ」と指示しても、そのような指示には誰も従わないだろう。あるいは、そんなことは散々しようとしてきた、でも駄目だったんだ、という反発を生むだけだろう。

     では、どうするか? 

     実はこれも広義の「症状処方」なのだが、この場合は、恐怖・不安を処方する。そして、その名のとおり、免疫をつけることに主眼がある。
     ただ「恐怖・不安を処方」するだけでは、「恐怖・不安に直面しろ」と指示ないしお説教するのと変わらないので、少し工夫する。

     「人に無視されるのはつらいですね。人間だし、当然のことです。相手がどういう反応をするかわからないし。でも、つらいあまりに、誰にも会えないというのをなんとかしたい訳ですね。少しでも、無視されるつらさが減ったらいいんですが。
     そこで、なれる練習をしてもらいたいのです。ええ、『無視されるつらさ』になれる練習です。
     毎日2人の人に挨拶して、わざと無視されてみてください。
     但し、この練習は、はじめての方には大変しんどい練習なので、無視されることに失敗しても、それ以上練習してはいけません。無視されるために挨拶するのは一日2人までです。これは守って下さい。ええ、普通の挨拶は、何人にしてもかまいません。無視されるために挨拶するのが、1日2人まで、です」

     おわかりのように、ここでも、あえて失敗することを「処方」している。

     そして、指示とおりに失敗しても(つまり挨拶して無視されても)、これは指示どおりやれたことで、小さな満足が得られる。そして恐怖・不安を引き起す場面に直面することが、結果としてできている。
     そして(こちらがより起こりやすいのだが)、失敗することを失敗しても(つまり、挨拶して無視されなくても)、こちらから人に関わっても無視されるばかりではない、という経験が得られる。恐怖・不安を引き起す場面は生じるとは限らないことを体験することでも、人は対人不安や恐怖を越えることができる。


    研究指示

     研究指示も、免疫法と同様に、回避による悪循環をほどくのに用いる。
     こちらは、試験前の勉強回避など、やらなくてはいけないのはわかってるけれど、やりたくないしやらない、といった回避について用いられる。

     「四の五言わずに、とっととやれ」
    というのもひとつの方法である。結構、効く。効き目がある場合は少なくない。

     その他、やることのメリットとデメリットをはっきりさせる、書き出す、などなど、ニーズが高い問題なので、解決法もまた多い。

     だが、これらで万事解決なら、そもそも問題解決ニーズはここまで高くなく、ぐずぐず主義(procrastination)の解決法も、ここまで氾濫しないだろう。

     わかっちゃいるけど、そして実はものすごく動機付けは高いのだけれど、かえってそのために行動を回避する場合には、力押しは悪循環の一翼を担う。

     「なるほど。勉強(練習)しなければならないことはもう重々承知しているし、むしろ、その気持ちが強すぎるくらいだと。確かにそうかもしれませんね。……では、こうしてみてください。机(ピアノ)の前に座って、いえ勉強(練習)ではなく、自分の動機付けと理想の高さについて研究してみてください。あまり長過ぎてもいけないから、1日5分だけ、この研究に時間を使うように。その間は、決して勉強(練習)してはいけません。ええ、絶対にです。それから、これは非常に重要な点ですが、研究は必ず机(ピアノ)の前に座って行うように。くれぐれも研究の間は、勉強(練習)しないでください」

     当然ながら、この指示は真剣に行われなくてはならない。
     やってもやらなくても別に構わない、といった雰囲気が少しでもあれば、研究指示からの回避、すなわち勉強(練習)への回避は生じない。

     たとえ回避を禁じても、その指示が守られないような場合、回避の禁止自体が回避以外の行動を抑制している可能性がある。
     研究指示は、およそ無意味なことをやるよう求める指示である。
     しかしもう一つの側面がある。
     それは(少しややこしいが)回避を回避することについての禁止である。
     さらに言えば、自身が回避していることについての直面化を求める指示である。
     自分が回避し続けていることは、もちろん愉快なことではない。したがって、その直面化はいくらか不快なことである。
     この直面化は避けることができる。それは、この研究指示を守らないこと、いや守ることに失敗することだ。
     この失敗は、もちろん、イコール勉強(練習)をすることである。

     「この指示は、私には難しすぎるみたいです。ええ、失敗しました。おもわず勉強(練習)してしまいました。研究結果? ええ、確かに動機付けと理想は、高すぎるみたいです」
    「そうですか。失敗したことは仕方ありません。ですが、次はうまくいくよう頑張ってみて下さい。どうしても失敗してしまったら、そのときは、できるだけダラダラと勉強(練習)するように。しゃかりきになってやってはいけませんよ」


    (その他の参考文献)
    ソリューション・バンク―ブリーフセラピーの哲学と新展開ソリューション・バンク―ブリーフセラピーの哲学と新展開
    (2005/07)
    長谷川 啓三

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    人間コミュニケーションの語用論 第2版―相互作用パターン、病理とパラドックスの研究人間コミュニケーションの語用論 第2版―相互作用パターン、病理とパラドックスの研究
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