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    遠藤 嘉基、渡辺 実 著『着眼と考え方 現代文解釈の基礎』が復刊します (ちくま学芸文庫, エ-17-1) 。
    タイトルを繰り返しただけですが、お伝えしたかったのは以上です。

    ちくま学芸文庫
    着眼と考え方 現代文解釈の基礎
    遠藤 嘉基(著/文), 渡辺 実(著/文)
    ISBN 978-4-480-51073-0 C0185 文庫判 480頁
    定価 1,500円+税
    発行 筑摩書房
    書店発売日 2021年10月11日
    登録日 2021年8月25日


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    蛇足ですが、文庫での復刊なので、最後に解説がつくのですが、これを読書猿が担当いたしました。

    中央図書出版から出ていたオリジナルにはない部分ですが、初版からはおよそ半世紀、当時と今とは国語(日本語)を巡る状況も異なり、なぜ50年近く前の本を現在の我々が読むべきなのかを説明することは必要だろうという趣旨のオファーがありました。
    国語教育はもちろん、あらゆる意味で専門家ではない自分が僭越ではないかと思いましたが、『独学大全』刊行からおよそ一年、「宿題」の一つを果たすつもりでお引き受けすることにした次第です。

    『独学大全』をお読みの方はお気付きの通り、実例編としての第4部の「国語」のパートで、『着眼と考え方 現代文解釈の基礎』を大々的に取り上げました。「入手困難な本を取り上げて!」と非難されるのを覚悟の上です。登場人物に「こういう本こそ復刊したらいいのにね」とまで言わせました。
    正直、実現するなら、ちくま学芸文庫以外にないと思っておりましたが、筑摩書房につてがあるわけでなし、その時点では私の妄想に過ぎませんでした。

    実現には、膨大な作業と想定外のご苦労があったとお聞きしています。
    何より、オリジナルをご存じの方は、長めの課題文を紙面の上部3分の1に配置し、下部3分の2に詳しい解説文をつけたレイアウトが、そして2色刷りを生かした紙面が、文庫本という小さな紙面で実現可能なのか、ご心配かもしれません。
    結果は、編集部ですら危惧されたこの難問を、デザインの力で違和感なく、そして読みやすい形で、クリアーされています。
    先日、北村一真 先生の『英語の読み方』(中公新書)について「新書でここまでやる!」と驚嘆したと申し上げましたが、同様の感動を覚えたことをお伝えします。
    「文庫でここまでできる!」だったらもう学習参考書の文庫戦国時代が来るのではないか、と。

    しかし、我々はかつてのように多くの時間をかけた国語科教育を受けなくなって久しい。
    この書はもともと中学を出たての高校1年生のために書かれたものですが、昨今の受験が要求するレベルを遥かに越えています。
    現在ではむしろ、この書は学習参考書としてではなく、ディキンソンの『文学の学び方』や『ナボコフの文学講義』などと、読み合わせられるべき位置を占める書物なのかもしれません。
    国語科を見下し蹂躙してきた歴史は、我々が書き言葉を扱う能力を剥奪されてきた歴史でもあるからです。

    言うまでもなく、書き言葉を扱う能力は、我々の知的営為を根底で支える力です。
    読み書きが満足にできないで、どうしてまともに考えることができるでしょう。

    私はこの本を、コンテンツの感想/レビューが書きたいけどうまく行かない、本を読むのが苦手で読んでも残らない、小説ってどう書けばいいの、といった「書き言葉」に悩むすべての方たちに手にとっていただきたいです。

    長らくおまたせしました。

    『着眼と考え方 現代文解釈の基礎』、満を持して復刊です。


     













    時折、

    「生という漢字の読み方は沢山(100以上、150以上)あるが、死の読み方は1つしかない」


    といったうんちくをSNSなどで目にすることがある。

    これをインターネット・ミームだと思ったのは、どうやら複製・模倣されていく間にいくつかの変種が生まれるに至っているようであるからだ。

    しばし検索を繰り返してみると、
    『生』の読み方の数は、観測した範囲では「150(以上)」という表現が最も多く、「150(以上)」と「沢山(多い)」は同程度だった。

    一方で変化していない部分もある。それは、様々な変種はあってもそれらが同じミームだと同定できる決め手となる「死の読み方は1つしかない」というフレーズである。
     「生き方は様々でも、死ねばみな同じだ」などの死生観を乗せやすいために、講演のつかみなどでも用いられるようになっている、という。

    しかし、これがインターネットを通じて広まったものと断定するのは難しい。
    手近なところで、Google booksでは用例を見つけることができなかったが、もとより網羅的なものではない。

    ※インターネット・ミーム(Internet meme)とは、インターネットを通じて人から人へと、通常は模倣として拡がっていく行動や言葉やアイデアなどのことをいう。


    ○まず漢和辞典を引いている

     そこで方向を変えて、より強い主張である「死の読み方は1つしかない」の反例を探すことにした。

     これは普通に辞書を引けば、すぐに見つかる。

     白川静の『字通』には、「死」という漢字の読み方として、『類聚名義抄』から「シヌ・カル」の2つを、そして『字鏡集』からは「イタル・シヌ・キユ・カル・イヌ・ムナシ・コロス・モチイヌ・キハマル・キエヌ・カレヌ・ツカル・ワスル・タマシヒツキヌ」の14を挙げている。

    幸いなことに『類聚名義抄』 と『字鏡集』については、国会図書館デジタルコレクションで閲覧することができる。

    『類聚名義抄』 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2609857
    11~12世紀ころの成立と推定される漢和字書。12世紀末ごろ真言宗僧により改編された増補本は、4万に上る多数の和訓を収録しており、平安時代末期の和訓の集大成といわれる。「仏」「法」「僧」という、我々には馴染みの薄い分類を採用しているので、求める文字を探すときは、『類聚名義抄. 仮名索引』を使うと便利である。
    https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1212361/79
    をみると「死」は「佛 上の七八」をみろとある。

    『類聚名義抄』佛 上の七八は、ここ。
    https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2586891/45


    『字鏡集』
    じきょうしゅう
    菅原為長の撰によると伝えられる漢和字書。7巻本と 20巻本がある。成立年代未詳。寛元3 (1245) 年以前に成立。訓が豊富であることを特色とする。
    https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2610089

    こちらは該当箇所を探し当てることができなかった。識者のアドバイスを待ちたい。



    ○ふりがな文庫での調査

     「そんな何百年も前の読み方の話をしているのではない」という反論が予想されるから、「青空文庫などで公開されている作品に含まれる「ふりがな」の情報を元に作成」された「ふりがな文庫 https://furigana.info 」でも検索しておこう。


    ふりがな文庫によれば「死」には50を超える読み方がある。
    https://furigana.info/w/死

    読み方(ふりがな) 割合
    し 58.9%
    じに 9.6%
    しに 7.0%
    ち 3.8%
    じ 3.4%
    しん 2.9%
    な 2.2%
    くたば 1.7%
    しな 1.2%
    お 0.9%
    (他:49) 8.4%


    ついでに「生」についてもふりがな文庫を見ておこう。こちらは400を超える読み方がある。
    https://furigana.info/w/生

    読み方(ふりがな) 割合
    は 16.9%
    なま 12.8%
    い 12.2%
    う 9.1%
    お 8.1%
    な 6.7%
    しょう 5.1%
    うま 3.8%
    き 3.5%
    せい 3.1%
    (他:400) 18.7%


    ○隠語大辞典での調査

    「死」の読み方はさらに多様である。

    皓星社の『隠語大辞典』はネット上でもWeblio辞書(https://www.weblio.jp)で引くことができる。

    これによると「死」は、「おめでたい」「くたばる」「ごねる」などと読まれることがある。
    最後にあげた例は「しぬ」と読むが、その意味が人が死亡することではない(なかなか辛辣な言い回しである)。


    https://www.weblio.jp/content/死?dictCode=INGDJ


    読み方:おめでたい

    死ぬること。往生。(一)めでたからねば戯れに逆さごとをいふ。「親分は-くなッたよ」。(二)年に不足なき高齢者の死。
    分類 東京




    読み方:くたばる

    死スコトヲ云フ。〔第六類 人身之部・大阪府〕
    倒死、往生に同じ、死を卑しみていふ語。「-つた」。「-りそくない」。
    分類 大阪府、東京




    読み方:ごねる

    死亡-〔関東及阪神地方〕。〔第四類 言語動作〕
    死ぬと云ふことの下等語。「〓屋のおやぢもとうとう-た」。
    死ぬることをいふ。
    分類 東京/下等語、関東及阪神地方




    読み方:しぬ

    人品賎くして、金策の覚束なき客をいふ。附馬仲間の隠語。
    分類 東京/附馬仲間






    ○死ははたして一つか?

     これまで「死」という漢字からその読み(訓)を追ってきたが、逆のアプローチも考えておこう。
     実は「しぬ」ことを表す漢字についても、「死」ひとつではない。

    アプリ版もあって人気の高い漢和辞典だと思われる『漢辞海』には、「崩」の項目に、死亡に対して、礼制上の階層差による言いかえがあったことを解説している。すなわち

    ・帝王の死に対しては「崩(ホウ)」
    ・諸侯には「薨(コウ)」
    ・大夫(タイフ)には「卒(ソツ)」
    ・士には「不禄(フロク)」


    そして最後に

    ・庶人には「死」


    といったのだ、と。

     和語でも「崩」や「薨」に対しては「みまかる」という訓があてられている。

    日本でも、中国礼制の影響を受けた、喪葬令(そうそうりよう)では、

    ○15 薨奏条

    百官(散官・女官・無位皇親等全てを含む)が死亡したならば、親王、及び、三位以上は、薨と称すこと。五位以上、及び、皇親は、卒と称すこと。六位以下、庶人に至るまでは、死と称すこと。

    (出典:現代語訳「養老令」全三十編(HTML版) 第二十六 喪葬令 第十五条 http://www.sol.dti.ne.jp/hiromi/kansei/yoro26.html#15



    親王または三位以上の者の死を〈薨〉といい,五位以上の者は〈卒〉,六位以下庶人は〈死〉と称して区別した。


    つまり「しぬ」ことは、少なくともそれを言い表す言葉については、「誰にも等しく同じ」というわけではなかった。


     再び白川静の『字通』では、「しぬ」という訓をもつ漢字には「死」以外にも次のようなものがあることを教えてくれる。

    亡、化、没(沒)、歿、卒、殂、逝、故、喪、落、殞、薨

    いくつかの紹介を引いておこう。

    「亡」は屍骨の象、「化」は骨片の形から来ているが、これに対して「死」は残骨を拝する形である。「葬」は草間に残骨を拝する形で、複葬を示す字である。


    「卒」(そつ)は卒衣。死者の襟もとを結んで、魂の脱出を防ぎ、邪霊の憑(つ)くのを防ぐもの。


    「殂」は且(そ)声、且に「徂(ゆ)く」の意がある。


    「逝」(せい)はもと往く意、のち長逝の意となる。


    「喪」は多くの祝告の器、犬牲を加えて哀告すること。そのとき用いるものを器といい、明器という。


    「殞」は員(いん)声。員は隕で上より落ちるもの(隕石の隕だ)、殞は人の死をいう。


    死因による違いでは、「沒」は水没することいい、その死を「歿」という。


    「薨」(こう)は、夢魔による死をいう。貴人には鬼神が憑(よ)ることが多く、その夢魔による死をいう。その昏睡の状にあるときの声をまた薨という。



     

    無知:たのもう、たのもう。

    親父:なんだ、騒々しい。また、おまえか。

    無知:独学なんかしても独善に陥るだけだといじめられました。なんとかしてください。

    親父:その話題は『独学大全』の対話11(418頁以降)で既に取り上げてるだろう。

    無知:そこをもう一声お願いします。やっぱり独学は独善は避けられないんでしょうか。

    親父:そうだな。おれたちの知識も認知能力も有限だ。すべてを知ることは不可能だし、どれだけ学んでも、知らないことすら気付けない未知の領域はいくらでもある。

    無知:とほほ。これからはひっそり日陰者として生きていきます。

    親父:賢明だな。まあ、あまりバカなことをしでかさないように、自戒するための注意点ならいくつかある。

    無知:そういうのを先に言ってください。なんですか?

    親父:まず第一に、専門家をバカにするようになったら、悪い筋に陥ってると思っていい。「自分は専門家が気付いてないことに気付いてる」、「専門家のような視野狭窄に陥ってない」な どと言い出すようになったら、トンデモの門をすでにくぐっている。

    無知:あわわ。今日だけでも7回は言いました。でも、それだと専門家の意見は絶対に正しい と、天の声扱いしなきゃならないのですか?

    親父:そうじゃない。専門家だって人間だ。知識も認知能力も有限であることは変わりがない。 専門家が自分の専門の範囲内ではあまりバカなことを言わないのは、そんなことすれば、 他の同業の専門家からボコボコに批判されるからだ(専門家になるためには、それまで少 なくない同業者からの吟味を経ているはずだ)。広い意味でのピア・レビューだな。逆に言うと、同業の専門家の目を気にしなくなったら、そいつはもう専門家とは言えない。専門家の肩書だけを残した、質の悪いトンデモ野郎だ。さらに言えば、その分野の中で専門家同士がまともに相互批判をできなくなっていたら、その分野ごと専門家集団としての信用を得られなくなるだろう。

    無知:なるほど、ある人が本当に専門家なのか、それとも資格をでっちあげて自称しているだ けの似非専門家なのか、見分ける基準にもなりそうです。でも、知識も認知能力も有限なのは、独学者だけじゃなく、人間の仕様というやつですか?

    親父:加えて言うなら、ヒトは身内びいきする生き物だ。仲間以外なら厳しく吟味することも、自分たちの仲間なら見過ごすなんて、実によくある話だろう。ピア・レビューはヒトの仕様からは自然には生じない。だからこそ、専門家集団という人工物=制度が外部足場として必要だし、そうした人工物を維持するには意識的な努力が要求される。

    無知:独学者も独学者同士、相互批判できればいいのでは?

    親父:不可能とは言わんが難しい。独学者はそれぞれの必要から、時にやむにやまれぬ必要から 学ぶ。始める場所も目指すところも、それぞれだろう。独学者は、独学という共通のディシプリンの船に乗っている訳じゃなく、皆各々の船に乗っている。すれ違う時には挨拶ぐらい交わすだろうが、基本的にはバラバラに学びの道を行くもの同士だ。最低限守るべき倫理はあるが、それはヒトなら誰しも理解できて担う程度の最低限のものだろう。何かを協同で作り上げることになったとしても、それは独学者同士というより、もっと別の目的や志に同じくする者同士として、のはずだ。そうだな、例えば、独学から専門家になる道が皆無という訳じゃないが、その時には、そいつは独学者としてではなく、専門家の端くれとして自らの論考を発表して、同業者による批判を受けるだろうし、そうあるべきだろう。

    無知:人間の仕様の話を思い出して、少し安心しました。実は、独学するような人間は自信家なので、余計に他の人の意見に耳を貸さなくなる、ようなことを言われたんです。

    親父:じゃあ一応聞いてやるが、おまえは自信家なのか?

    無知:滅相もない。調子づいた発言をするのでよく誤解されますが、どちらかというと打たれ弱いヘタレです。

    親父:違いない。確かに広い世の中には、誰かに頼る必要がないと思うから、他人に学ぶ機会 があったにも関わらずそれを選ばないで、独立独歩の道を行くような奴もいるかもしれん。まあ、そういう連中は『独学大全』なんて本には見向きもしないだろうがな。

    無知:そうでしょうね。

    親父:独学は、実家の太い強メンタルな者だけに許された贅沢品じゃない。学ぶことは、 自分に何か足りないところがあることを、そして、その不足を補うに足りる何かを他人が既に生み出してくれているかもしれない可能性を、前提として承認しなければ成り立たない。それに、学ぶことを続けていけば、今ある知識に積み増ししていくだけでは済まず、そのうち今まで自分が積み上げてきたと思うものの一部(時には大部分)を一旦壊してやり直さなくてはな らぬ段階がやってくる。一片の謙虚さも持たずに、どうして他人が作ったに過ぎない知識を受け入れ、その中に入って行こうとすることができる? 自分より先に自分よりも(何らかの面で) すぐれた者がいたはずだと期待できないで、どうして学ぶという賭けを続けることができる? 自分が誰の教えも必要ないと思うほど偉ぶって、この世界が生きるに足り、また学ぶに足りると、どうして信じることができる?